凡フライ日記

山下翔と短歌

阿波野巧也「緑のベンチと三匹の犬」を読む1

 「詩客」というサイトに、阿波野巧也の作品「緑のベンチと三匹の犬」が載っている。阿波野作品の現在がよくあらわれている10首連作だなあ、と思ってうなりながら読んだ。

・父親とラッパの写真 父親は若くなりラッパを吹いている
   阿波野巧也「緑のベンチと三匹の犬」

 写真、というのは(って別に写真に限った話ではないし、なんなら短歌だってそうだけど)過去をうつすものである。けれど、その写真の中(に限った話ではないし、たとえば短歌とか歌集だってそうだけど、その中)で、そのものや人や、景色は現在形である。

 掲出歌ではまず「父親とラッパの写真」が示される。この時点で、父親とラッパをどのように結びつけるかは読者にまかされている。
 ——父親が楽器屋で働いていて、ラッパをみがいている。
 ——父親が趣味でラッパをやっていて、吹いている。
 なんでもいい。そこは一旦フラットに、「と」という助詞で並列に配される。

 次に一字空いて、もうひとつのかたまりへ。ここですこし、状況がわかってくる。
 父親は「若くなり」というのは奇妙であるけれど、いまの父親の像がわたしのなかに、あるいは実際にあって、そこから写真のなかの父親へ目線をうつすとき、たしかに父親は若くなる。父親は若いままで写真の中にいる、というふうな把握もできるだろうけど、そうではなくて、あくまで、わたしが時間をさかのぼって写真のほうへ向かっていく、この視線が一首の核である。そしてそこで、父親は「ラッパを吹いている」。

 ——父親とラッパの写真 父親が若くなりラッパを吹いている
 ——父親とラッパの写真 父親はまだ若くってラッパを吹いている
 ——父親とラッパの写真 父親がまだ若くってラッパを吹いている

 と、書き換えてみる。「父親は若くなり」のニュアンスがだいぶわかってくる。このあたり、もうちょっと詰めないと評にはならないけれど、ともかくおもしろかった。
 これは文体、というよりは情報の削ぎ方に魅力があるんだろうなあ、と思う。状況の示し方や、気分の出し方に独特の色味がある。このあたりをふくめて、2首目以降も検討したい。

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