凡フライ日記

山下翔と短歌

伊舎堂仁『トントングラム』を読む1

ラジオ体操の帰りにけんかしてけんかし終えてまだ8時半
   伊舎堂仁『トントングラム』(2014)

 夏休みなんかに朝から集まってやるラジオ体操、をまずはイメージした。6時半、だったかな、実際にラジオで流れるラジオ体操の音楽と解説をききながらするラジオ体操である。毎日通ったらなにかもらえる、みたいなカードをぶらさげて、一日ひとつスタンプをおしてもらう。というのをやっても、7時には解散、という感じだろう。「まだ」8時半、というのは、けんかするだけけんかして、それでも「まだ」8時半、つまり、こどもの朝は早い、なんでこんなに早いんだろう、というかこどもの一日は長い、その変な感じやある種の懐かしさがこの歌の肝だ、とまで思って読んだのに、いま、少し考えてみるとそうじゃないな、ということがわかる。
 まず、7時から8時半はけっこう長い。ちょっとけんかした、くらいのことにしては長すぎる。ラジオ体操の場所から家までの距離、歩いてか自転車か、帰るのにかかる時間をさし引いても、長い。それで歌をもう一度読んでみると、「けんかして」で上の句が終わるのに続けて「けんかし終えて」と、けんかする、が繰り返されている。上の句と下の句の間をはさんでのリフレインに、けんかの長さを感じることができないだろうか。かなりしっかり、けんかしたのだ。ちょっと口げんかした、とか、ちょっともめた、とかではない。一応はけんかし終えているけれど、なんだか終わってる感じがしない。いや、終わっているんだけれど、何かが残っている。こどものけんかみたいに忘れておわり、仲直りしておわり、なんならもう遊んでるさっきまであんなにけんかしていたのに、という呆気なさが、この歌のけんかにはない。
 つぎに、ふたたび「まだ」という副詞に注目したい。「まだ」8時半、というのを、その渦中にいるこどもが感じるかなあ、という不安が読んでいて残った。時間が全然経っていない、という意味の「まだ」で、たしかに時間が経ってないなあ、とかもうこんな時間なのか、とか、こどもであっても感じることではある。ただ、さっきのけんかの感じと合わせて考えると、どうもここにいるのはおとなのような気がする。ラジオ体操、けんか、まだ8時半、というこどものイメージを引き起こすようなことばで歌を作っていて、たしかにそのイメージがまず浮かぶのだが、しかるのち、そのこどもがにゅーっとおとなにすりかわっていく、そういう奇妙な作りになっているんじゃないか。
 というわけで、おとな、を想定してもう一度歌を読んでみる。おとな、でもまあふだんからラジオ体操をする人はいるし、そういう集まりもあるわけで、必ずしも夏休み、とは言えない。いつでもいい。つぎに、ラジオ体操から帰る、と言っているので、家からラジオ体操をする広場に行って、みんなでラジオ体操をして、それからまた家に帰る、ということだろう。その帰り道、というか帰りはじめにけんかがはじまって、だから結局まだ広場を出ていないかもしれない。帰り、というのはラジオ体操の後から家までの「時間」を表しているわけだ。それでひとしきりけんかして、けんかし終えて、はあ疲れた、っていうかなんでこんな朝っぱらからけんかなんだよ、なんか後味もよくないし。で、時計を見ると「まだ」8時半、という歌である。
 「まだ」というのはこの一首において、たんに、時間が経ってないことに対する「まだ」ではない。相当の気持ちがのった「まだ」なのだ。そしてこの「まだ」という副詞の、ひとつの感じを具体例といういわば比喩によって提示しているのがこの一首の肝心ではないだろうか、と、そういうふうに考えている。

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作品リスト(文章)

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暗がりから外を見る時(『現代短歌』4月号、現代短歌社)
……第一歌集ノオト(書評)に関野裕之歌集『石榴を食らえ』評を書きました

【2016年】
バネとしての〈の〉(『やまなみ』2月号)
……阿波野巧也および『京大短歌』を中心に、助詞の〈の〉について書きました

【2013年】
「の」の連続にみる一首のもつ世界(『現代短歌新聞』4月号、現代短歌社)
……助詞の「の」を連ねる歌をいくつか挙げて、その方法について考えました

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