凡フライ日記

山下翔と短歌

小池光『思川の岸辺』を読む1

一日の過ぎゆくはやさ凝視して妻と二人あり十一月二十日
   小池光『思川の岸辺』(2015)

 巻頭の一首。「マゼラン」という題のついた連作から歌集は始まる、その一首目の歌である。表現としては「妻と二人あり」の「二人あり」にまずひっかかるのだが、上の句の状況も実はかんたんなものではないような気がして読み返してみた。
 一日の過ぎゆくはやさ、というのは基本的にはどんな日でも等しいわけだが、この日は特別はやく感じられた、と読みたいきもちを少しこらえて、〈一日の過ぎゆくはやさというもの〉くらいにとってみる。そういうもの一般を指している、と読んでみるのだ。もちろん、結句を見れば「十一月二十日」とあって、ああ、この日が何か特別な日で、だから、そんな日だからこそ一日の過ぎゆくはやさが速いんだろうなあ、と思ってみることもできる。わざわざ日付を指定しているから、なにかあるんだろうな、と。ここで、ついつい「特別はやく感じられる」とか「一日の過ぎゆくはやさが速いんだろうなあ」と書いてしまったけれど、はやさ、と言っているだけであって、それが大きいとか小さいとか、つまり速いとか遅いとか、そういうことは書かれていない。この人はただ、じっと見ている。たとえば〈一日の過ぎゆくはやさというもの〉は等しいはずなのにこんなふうに遅い日もあれば、昨日のように速い日もある、さて、どういうことだろう、というふうに。それもできるだけ考えずに、起こっていることを目でとらえようと集中している。どういうことだろう、とは思っていても、それをなにか理論をひっぱってきて考察する、というふうではないのだ。その「凝視する」ような視線そのままに妻と自分とが居る状況をとらえたときに、「妻と二人あり」という表現がうまれる。(この接近をあらわすのが助詞の「て」である。)さらにその視線は保たれながら今日という日の日付へと至り、結句、十一月二十日、とくくられている。そういう意味でこの一首は、どんなきっかけであったかはわからないが、ともかくまず誰か、〈一日の過ぎゆくはやさというもの〉を凝視する人がいて、その人がその視線を保ったままに現実世界に触れ、妻と二人ある状況をとらえ、十一月二十日という日付にただりついた、そういう一首であろうと思うのだ。

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