凡フライ日記

山下翔と短歌

第9回 頭からかかる

 前回は、三句のオノマトペが上句・下句のそれぞれにかかって一首の詩情を豊かにしている例をみたが、もう少しラフな形のものを今回は二首とりあげる。

・近づいてくる近づいてくる神輿はるかなるあの夏の性愛
     小島なお「神輿」

 近づいて/くる 近づいて/くる 神輿、と定型の力学にそって読むのがいいように思う。近づいてくる、と同時に、何か強い衝動が「くる」、ということが強調されるようだ。
 お祭りの風景の一場面、「近づいてくる」神輿を見ながら、その勢いに「はるかなるあの夏の性愛」を思い起こしている。そしてそれもまた、「近づいて/くる」のだ。同じ作者に「噴水に乱反射する光あり性愛をまだ知らないわたし」という有名な歌があるので、そのことを思ってしまう。
 この歌については、以前にも九大短歌会のブログで触れたことがあって(あの夏)、似たようなことを書いている。
 そのときはおそらく、頭から二つのものへかかっていくやり方を、とくべつ意識してはいなかったと思うが、たとえば次の歌にも同じような構造がある。

・あざやかに季節は移り暗殺もやむなしといふ論の緻密さ
     大口玲子「寒気殺気」

 どういう論理でたどりついた結論なのか、「暗殺もやむなし」ということになってしまった。巧みに論を組み立てて常識をひっくりかえしてしまう手つき、そのあざやかさに困惑している。焦りを感じている。
 季節も、気づいたときにはすっかり移りかわっていて、もうもとへは戻れない。
 あざやかに季節が移り、すなわちそれだけの期間があり、そしてすっかり局面が変わってしまった。次の段階に、突入してしまった。もうやり直すことのできない議論、「暗殺もやむなし」という結果だけが残って、そうこうしているうちにたとえばことは実行され、そこからさらに展開していくだろう。

 二首ともに、スリルを感じた歌だった。

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第8回 三句でつなぐ

・火に炙る魚うらがへしじぷじぷと西日があたる背中が暑し
     小島ゆかり『憂春』

 夕食のしたくだろうか、厨にたつ人の姿が見える。三句の<じぷじぷと>が、調理すれる側・する側の双方にかかっている。つまり、魚をうらがえしたところ、よく焼けて表面がじぷじぷと音を立てている。油がはねているかもしれない。一方で、そうやって調理しているわたしの背中にも西日があたっていて、全く魚と同じようだ、という場面なのだ。
 わたしの背中が<じぷじぷと>というのは少し大げさに感じるかもしれないが、そのくらいのほうが、面白みがあっていい塩梅になっている。

・てのひらにてのひらをおくほつほつと小さなほのおともれば眠る
     東直子『春原さんのリコーダー』
・ちよつと潤んだ夏の月出てまるまると太つた赤子抱いて出る母
     馬場あき子『あかゑあをゑ』

 同じように、三句目に<ほつほつと><まるまると>というオノマトペがあって、それが上の句・下の句のどちらにもかかっている。
 一首目、「てのひらにてのひらをおく」その感じをほつほつと、と言っている。やさしい手の置き方だ。そして手と手を重ねたことによって生まれる「小さなほのお」、その灯るさまもまた、ほつほつと、なのだ。二人に、静かな夜の時間が流れている。
 二首目、大きな夏の月、ちょっと潤んでいて艶がある。それを大胆に、まるまると、と述べながら、それが「太つた赤子」にかかっていく。そこまで読んでみて初句にかえると、「ちよつと潤んだ」が赤子にも母にもそれを眺めているひとにも、あるいは夏の、そこの風景そのものにもかかっているようにみえる。

・死後生殖、の果てに広がるびらびらの浜昼顔へ細き雨ふる
     大森静佳「顔を産む」

 初出は『短歌研究』2014年8月号。同じ一連に、「羊水はこの世かこの世の外なのか月の臭いがひどく酸っぱい」という歌があって、先に挙げた馬場の歌と重なる。
 死後生殖、の果てに広がるものは何だろうか、よくわからないけれどこう、びらびらとした襞のようなイメージがあって、それをつかもうとしている姿が浮かんでくる。そこから一転、<びらびらの>はごく自然に「浜昼顔」へかかって、風景は現実にひきもどされる。

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第7回 枕詞

 手紙の書き出しには、季節の挨拶をもってくることが多い。何を書くにしてもそうだが書き出し、というのが一番難しくて、書き出すことさえできればあとはその流れで書けるのに、と思いながらうんうん唸って原稿用紙に向かっていた小学生の頃の、作文の時間などを思い出す。
 季節の挨拶、という一つの形式が、手紙を「書き出させる」役割を持っているのだろう、と思う。それに似た、という風に個人的にはそう思っているものとして、短歌における<枕詞>がある。枕詞は基本的に5音で、ある特定のいくつかの言葉を導く。

・あからひく朝青龍(あさしやうりゆう)のかなしみはモンゴル語にてその身に満つや
     大松達知『ゆりかごのうた』

 あからひく、が枕詞にあたる。赤みを帯びるという意味から、「朝」「日」「肌」などにかかるとされる。ここでは「朝青龍」(の朝)にかかっているわけだが、言ってみれば、こういう使い方もアリなのだ。
 朝青龍はモンゴル出身の相撲取り。日本に暮らし、日本で活躍しているわけで、もちろん日本語も話す。けれども言葉というのは文化や風土と切り離せないところがあって、育った国の言葉、というのがそのまま感じ方につながっていく。
 たとえば日本では小学校高学年から英語を習って、高校、大学までずっと英語をやり続けるけれども、それでも多くの人は、日本語で感じ、日本語で発想する。それと同じことだ。

・あかねさすIKEAへゆこうふたりして家具を棺のように運ぼう
     岡野大嗣『サイレンと犀』

 あかねさす、は茜色に美しくかがやくという意味から、「紫」「昼」「日」「照る」「月」「君」などにかかるとされる枕詞。イメージは先のあからひくに近いのだが、美しいとか、かがやくといった感じが「IKEA」にかかっている。
 つまり単に、照明によってあかるくなっているだけではなく、そこには家具があって、その先にはそれぞれの人の暮らしがある。暮らしてゆこうとする明るさ、美しさ、かがやかしさがあるのだ。
 それが一転、「棺のように運ぼう」とくる。この結句が、一首に緊張感を生んでいる。

・ゆうぐれが去るのを待ってぬばたまの洗濯槽に魚をあらう
     吉岡太朗『ひだりききの機械』

 「ぬばたまの」は、「黒」「髪」「夜」などにかかる枕詞だ。そこからさらに、「一夜」「昨夜」「今宵」など夜をあらわす言葉、あるいは転じて「妹」「夢」「月」などにもかかるとされる。ぬばたま(=射干玉)とは草の実のことで、それが黒くて丸いことからきている。
 この歌の場合、「ゆうぐれが去るのを待って」が「ぬばたまの」を導いている感じ、もある。つまり全体的に夜の、あるいは暗いイメージがあって、夜になったら洗濯槽で魚をあらう、という印象的な動きがあらわれる。何か、見られてはまずいことをしているような雰囲気があって、けれども決してふざけてやっているわけではない、という落ちつきがみえる。

・いつまでも裏返されぬぬばたまのオセロの駒のあぱるとへいと
     黒瀬珂瀾『空庭』

 ぬばたまの(黒の)オセロの駒、という感じだろう。つまり、オセロ盤の上で展開される攻防――白と黒の鬩ぎあい――に世界の情勢を重ねてみているのだ。アパルトヘイトとは、南アフリカ共和国の有色人種差別政策。1991年に法的には全廃されたが、「いつまでも裏返されぬ」まま白優勢が続いている状況、それを「あぱるとへいと」という表記に託したのだ。
 もちろんその反転だって、ある。
 いくつもの重層的なイメージが不穏な感じを漂わせている一首だ。そしてそれは、枕詞そのものが、用いられることによって喚起するイメージを濃厚にしてきた感じと重なってもみえてくる。

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第6回 遠くをおもう2

 ごく近いものにたとえば触れながら、遠くのものを「おもう」方法を考えていた。今回は栗木京子の『しらまゆみ』から3首ひろってみる。

・無塩バター四角く冷えてゐる夜に離れて暮らす息子をおもふ

 これは直接手を触れているわけではない。けれども「無塩バター」は手に届くところにある。無塩の後ろに無縁を感じるのは大げさだろうか。そこまではいかずとも、「無塩」であることの味気なさとか、物足りなさのようなものが伝わってくる。互いに触れることのできないもの同士のわたしと「無塩バター」。それがわたしと「離れて暮らす息子」に重なる。

・生牡蠣を大根おろしに洗ひつつ処女にて死にしヒロインおもふ

 生牡蠣にグロテスクさがある。大根おろしで洗うのは、そういうやり方があったように思う。汚れをとるためだったかな、定かではない。ともかく特に突飛なことをやっているわけではないのだが、字面だけ追っていると、穏やかではない光景のように見えてくる。そしてその勢いのまま、「処女」のまま「死」んだ「ヒロイン」がでてくる。上の句の危うさを「処女」が引き継いでいるのだ。そしてその「処女」もまた、ひとつの届かなさのように思う。

・紅茶積むまま難破せし船おもふティーバッグの糸引き上げながら

 上の句と下の句の倒置によって、まず、<いま、ここ、でない>が提示されている。そこからぐーっと<いま、ここ>へ引き戻されるのだが、その感じと、「ティーバッグの糸」を「引き上げ」る動きが少し重なる。とは言え、下の句の動作が呼び起こすのはやはり、難破した船を引き上げる仕草そのものだろう。小さなティーカップの前では、神の手にもなるのだ。<いま、ここ>が<いま、ここ、でない>とはっきり一致するかのような錯覚である。

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第5回 遠くをおもう

 いきなり例から始める。

・なめかけの飴をティッシュの箱に置きついに住まない城を想えり
     雪舟えま『たんぽるぽる』

 「なめかけの飴」を口から出して、それが<いま、ここ>にある。上の句からはその手つきが、やけに細かく見えてくる。それは、「なめかけの飴」などという人前にはそうそう出さないようなものが、読者の側にははっきりと突き出されているからだろう。そしてその<いま、ここ>から下の句へ、ぐっと飛躍して「ついに住まない城」へと移る。<いま、ここ、でない>ところへの鮮やかな移動。「ついに住まない」には時間的な遠さ、「城」には位置的な遠さがある。それを「を想えり」という直接で述べるスタイルだ。これも短歌でよく使われる技法である。

・行くあてはないよあなたの手をとって夜更けの浄水場を思えり
     服部真里子『行け広野へと』

 手と手が重なる<いま、ここ>が、「行くあてはないよ」という鮮やかな歌い出しによって強調される。単にどこか行こう、という感じではない、二人のこれからを想像してしまう。これからのことはわからないけれど、けれども、二人でやっていきましょう、という柔らさと強さの綯い交ぜになった手が手に置かれる。そして思うのは、これからの二人のことではなく、「夜更けの浄水場」なのだ。なんだ、考えすぎていたのか、単に散歩にでも行こうとしていたのだ、と思うのは少し待ちたい。別に何かのメタファーであるとは読まない。が、確かに<いま、ここ、でない>ところの「夜更け」の「浄水場」なのだ。

・てのひらのカーブに卵当てるとき月の公転軌道を思う
     伊波真人「冬の星座」

 ここまで読んできて、<いま、ここ>にあたる上の句では、<手>がその空間を占めていることに気付く。そしてそこから<手、の届かないところ>へ思いを馳せる、という作りなのだ。
 歌に戻ると、「てのひらを卵のカーブに当てるとき」ではないところに、確かな手触りがある。そこから「月の公転軌道」を思い浮かべている。卵と月、カーブと公転軌道がリンクするのだろう。けれども後者には手が届かない。直接は触れえないけれど、思ってみることはできる。そのことの豊かさを思う。

・カーディガンたたむ あなたがゆっくりと歩いてくれたことをおもった
     江戸雪「さえずり」

 やっぱり<手>だ。あなたのカーディガンをたたむ手がある。洗濯したのかもしれない。たたみながら、いつのことかはわからないが、あなたと二人で歩いた日のことが思い返されたのだろう。どこに行ったとか、どこを通って何を話したとか、そういうことはどうでもいい。わたしのペースに合わせてゆっくり歩いてくれた、そのことと「あなた」を思うだけで温いものがたまってくるようだ。その効用は、カーディガンと重なってもみえる。

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第4回 短歌的な「の」4

・子の体のすべてが生きていることの裸体でおどる寒くないのか
     花山周子「今は冬」

 (上の句⇔四句)+結句、という構造で、これまで挙げてきた上の句⇔下の句という図式の派生形、という感じがする。状況としては、子どもが裸でおどっていて、それを見ながら(体のすべてが生きている!)と感じている。けれどもふと我にかえって、(寒くないのか?)とも洩らしている。
 タイプについて言えば「高→低」になろうが、単純ではない。「!」と「?」も勝手に挿入してみたが、取替え可能な感じが十分にある。そこでたとえば次の歌を思い出してみる。

・生きるとは手をのばすこと幼子(おさなご)の指がプーさんの鼻をつかめり
     俵万智『プーさんの鼻』

 子どもの「指がプーさんの鼻をつか」んでいるのを見て、「生きるとは手をのばすこと」だと感じている。もちろん、「手をのばす」には、単に手をのばすこと以外のあれこれが含まれていよう。一つ一つ何かをつかもうとしていくこと、好奇心をもって近づこうとすること、……。子どもの動作からそれらを経由して「生きるとは手をのばすこと」に到達する、その、見てから感じるまでの時間――はっとした瞬間、それからあれこれ思いをめぐらせてたどりつくまでの時間――を読者も求めてしまう。
 けれども短歌を上から下へ読んでいくと、どうしてもその時間が足りない。そこで、「足止め」を用意したり、あるいはこの歌のように、出来事と感想を入れかえて提示したりするのだ。
 「生きるとは手をのばすこと」と言われて読者は考える。どういうことだろう、と、自分のことについて振り返る。わかるようなわからないような気持ちを抱き、けれどもなんとなく自分なりに思いあたる節がある、と思いながら続きを読む。はっ、とする。という展開だ。

 花山の歌にもどる。「子の体のすべてが生きている」と言われて、何のことだろう、と考える。「裸でおどる」で、ああ、となる。で、すかさず「寒くないのか」とツッコミが入る。この「寒くないのか」が効いている。一首全体がやや忙しい印象もあるが、「寒くないのか」に、ふつうの人のリアリティがあるような気がするのだ。
 ふつうの人、というのは粗雑な物言いだが、要は、「寒くないのか」でバランスをとっているのだ。建前と本音の配合のちょうどよいところで一首を提示する、それがそもそも、口語的、ということのように感じられる。口語的、というのは単に普段遣いの、くらいの意味ではなくて、そういうバランスのとり方、言ってみれば、ごくごく日本人的なやり方なのかもしれない。口語発想の文語、というものが短歌のなかで用いられるようになっていったのも、そのあたりを察知してのことなのだろうか。と、今回はこのあたりでおしまいにする。

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第3回 短歌的な「の」3

 前二回、特に意識したわけではないのだが比較的新しい歌ばかり挙げたようだから、時期的に古いものもいくつか挙げたい。というのも、いわゆる短歌的な「の」が、いつぐらいから使われ始めたのか、あるいは、どのような変遷をたどってきたのかについては、改めて探ってみる必要がある。そのきっかけくらいにはなるだろうと思ってのことだ。

・帰り来てまづ掌を洗ふならはしのこころやさしいけものとおもふ
     永井陽子『なよたけ拾遺』

 帰宅するとまず手を洗う、その習慣に「こころやさしいけもの」を見ている。人も獣には変わりないが、「こころやさしい」獣なんだと。
 前回は上の句から下の句へ<高→低>と流れたが、この歌では<低→高>へと自然な展開になっている。その分、具体的なところからどれだけ発展できるかが、歌の印象に関わってくるようで難しい。むろん、それだけならば1回目に挙げた阿波野や黒瀬の歌とほとんど同じだが、永井のこの歌の場合、上の句が具体的とは言え、それは個別具体的というよりは一般的な所作であるから、その点からすると、「こころやさしいけもの」の感じがどうも掴めない感があるのだ。
 (「の」の話に直接関係のあることではないが、「とおもふ」という述べ方も、短歌にはよく出てくる。このことはいずれ書くつもりでいる。)

 さて、古い歌を探そうとするが、手持ちのものからはなかなか見つからない。もちろん、上の句と下の句を「の」で連結するやり方の歌はいくらもある。その中だと、主格を表す「の」――今で言うところの「が」――については、いま扱っている「の」に近い印象を受けた。

・海に来て道に迷えるうれしさの郷愁に似れどふるさと知らず
     馬場あき子『地下にともる灯』

 はじめて来た場所なのにどことなく懐かしい感じがする、という経験があるが、そうするとさて、懐かしさとは、郷愁とはなにか、と考えてしまう。
 この歌の場合、「道に迷えるうれしさ」の感じが、結句の「ふるさと知らず」にばっさりやられてしまうところに歌の魅力がある。つまり上の句と下の句に若干の差があって、それが「の」によって接続されているところに、なんとなく短歌的な「の」の臭いを感じたのかもしれない。

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第2回 短歌的な「の」2

 さて、前回挙げた二首は、「の」の使われ方としてはかなり近いものを並べた(読点を伴っている点でも共通している)。そこでは「足止め」という言葉を使った。一方、他にも上の句と下の句を、この短歌的な「の」で接続するやり方の歌はたくさんあって、細かいニュアンスの違いがある。

・わたしにもまだ夕方があることの頬しろき犬の過(よ)ぎる縁側
     小林朗人「わたしのいなくなった部屋」
・だんだんと冗長になるセックスの明日何時に起きるんだっけ
     望月裕二郎『あそこ』

 一首目、夕方があることの(証として、たとえば)頬しろき犬の過ぎる縁側があり、二首目、冗長になるセックスの(証として、たとえば)<「明日何時に起きるんだっけ」なんて考えている状況>がある。
 ここでは「の」の後に省略されている言葉を(証として、たとえば)に揃えてみたが、要は、1つの状況が「の」を挟んでくり返されている。

・ちがう目の高さにすむということのわたしがさきに見つけている猫
     吉岡太朗『ひだりききの機械』

 同じように、「ちがう目の高さにすむということ」の実際の状況として、「わたしがさきに見つけている猫」が例示されている。けれどもこの歌では下の句が、上の句のかなり直接的な例示になっているのに対して、小林の歌はややぼんやりしているし、望月の歌はやや距離がある。
 そういう差があるにはある。それは1首を鑑賞する場合においては大事な差であることには違いないが、1首全体の構造を見た場合には、そこに類似を見ても差し障りないように思う。

 ところで、こうして見てみると、すごく論理的な印象を受けるかもしれない。もちろん歌のことである。が、歌を読んだときにはそうは思わない。最後まで読んでしまって、(おそらく作者がそうであったように)、下の句から上の句へ再び戻る。
 上の句と下の句で同じ状況を述べているけれど、そこには高低の差があって、上の句から下の句へ流れたあとは再び上の句へ引き上げられる。あたかも、めぐりめぐった電流が、最後にはまた電池に引き上げられるかのように。

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第1回 短歌的な「の」

 これから書いていこうとする「表現」というのは、何も目新しいものではなく、ごく一般的に使われている修辞の類を、少し自分なりに整理してみよう、というくらいの動機から書くものである。
 それで、短歌的な「の」というのは、例えば次の歌に現れるような「の」のことを言いたい。

・ストローを刺してあふれるヤクルトの、そうだよな怒りはいつも遅れて
     阿波野巧也「シティトライアル」
・ゴミ袋を提げつつ仰ぐ夜桜の、「家」を得て知るさみしさもある
     黒瀬珂瀾「吾子よ気付くな」

 一首目、頭から読んでいくと、「の、」で一旦足止めをくらう。それはおそらく作者にとってもそうで、そこから、<「怒り」という感情は「いつも遅れて」やってくるよな>という感想が出てくる。この場合は「そうだよな」、と言ってくれているけれど、二首目ではそれすらも隠されている(そのことによる気分の差がもちろんある)。
 普段使いの「の」は、主に連体修飾語として、つまり後ろに体言が続く形で用いられる。もちろん他にも意味・用法はあるが、普段使いでないという意味で、短歌的な「の」、と言っている。で、「ヤクルトの」「夜桜の」と言われたら、すぐさまその後に体言が続くことを期待し、そういう勢いで読むのに足止めをくらってしまう、この緩急、逡巡。
 例えば枕詞や序詞の終わりの「の」のように、「のように」くらいの気分でとることもできなくはないが、野暮な感じがする。一首の構造にしたがって、読者も一度立ち止まってみる、そうして少し「遅れて」やってくる感慨を味わうのが良いように思うのだ。

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