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第4回 短歌的な「の」4

・子の体のすべてが生きていることの裸体でおどる寒くないのか
     花山周子「今は冬」

 (上の句⇔四句)+結句、という構造で、これまで挙げてきた上の句⇔下の句という図式の派生形、という感じがする。状況としては、子どもが裸でおどっていて、それを見ながら(体のすべてが生きている!)と感じている。けれどもふと我にかえって、(寒くないのか?)とも洩らしている。
 タイプについて言えば「高→低」になろうが、単純ではない。「!」と「?」も勝手に挿入してみたが、取替え可能な感じが十分にある。そこでたとえば次の歌を思い出してみる。

・生きるとは手をのばすこと幼子(おさなご)の指がプーさんの鼻をつかめり
     俵万智『プーさんの鼻』

 子どもの「指がプーさんの鼻をつか」んでいるのを見て、「生きるとは手をのばすこと」だと感じている。もちろん、「手をのばす」には、単に手をのばすこと以外のあれこれが含まれていよう。一つ一つ何かをつかもうとしていくこと、好奇心をもって近づこうとすること、……。子どもの動作からそれらを経由して「生きるとは手をのばすこと」に到達する、その、見てから感じるまでの時間――はっとした瞬間、それからあれこれ思いをめぐらせてたどりつくまでの時間――を読者も求めてしまう。
 けれども短歌を上から下へ読んでいくと、どうしてもその時間が足りない。そこで、「足止め」を用意したり、あるいはこの歌のように、出来事と感想を入れかえて提示したりするのだ。
 「生きるとは手をのばすこと」と言われて読者は考える。どういうことだろう、と、自分のことについて振り返る。わかるようなわからないような気持ちを抱き、けれどもなんとなく自分なりに思いあたる節がある、と思いながら続きを読む。はっ、とする。という展開だ。

 花山の歌にもどる。「子の体のすべてが生きている」と言われて、何のことだろう、と考える。「裸でおどる」で、ああ、となる。で、すかさず「寒くないのか」とツッコミが入る。この「寒くないのか」が効いている。一首全体がやや忙しい印象もあるが、「寒くないのか」に、ふつうの人のリアリティがあるような気がするのだ。
 ふつうの人、というのは粗雑な物言いだが、要は、「寒くないのか」でバランスをとっているのだ。建前と本音の配合のちょうどよいところで一首を提示する、それがそもそも、口語的、ということのように感じられる。口語的、というのは単に普段遣いの、くらいの意味ではなくて、そういうバランスのとり方、言ってみれば、ごくごく日本人的なやり方なのかもしれない。口語発想の文語、というものが短歌のなかで用いられるようになっていったのも、そのあたりを察知してのことなのだろうか。と、今回はこのあたりでおしまいにする。

第3回 短歌的な「の」3

 前二回、特に意識したわけではないのだが比較的新しい歌ばかり挙げたようだから、時期的に古いものもいくつか挙げたい。というのも、いわゆる短歌的な「の」が、いつぐらいから使われ始めたのか、あるいは、どのような変遷をたどってきたのかについては、改めて探ってみる必要がある。そのきっかけくらいにはなるだろうと思ってのことだ。

・帰り来てまづ掌を洗ふならはしのこころやさしいけものとおもふ
     永井陽子『なよたけ拾遺』

 帰宅するとまず手を洗う、その習慣に「こころやさしいけもの」を見ている。人も獣には変わりないが、「こころやさしい」獣なんだと。
 前回は上の句から下の句へ<高→低>と流れたが、この歌では<低→高>へと自然な展開になっている。その分、具体的なところからどれだけ発展できるかが、歌の印象に関わってくるようで難しい。むろん、それだけならば1回目に挙げた阿波野や黒瀬の歌とほとんど同じだが、永井のこの歌の場合、上の句が具体的とは言え、それは個別具体的というよりは一般的な所作であるから、その点からすると、「こころやさしいけもの」の感じがどうも掴めない感があるのだ。
 (「の」の話に直接関係のあることではないが、「とおもふ」という述べ方も、短歌にはよく出てくる。このことはいずれ書くつもりでいる。)

 さて、古い歌を探そうとするが、手持ちのものからはなかなか見つからない。もちろん、上の句と下の句を「の」で連結するやり方の歌はいくらもある。その中だと、主格を表す「の」――今で言うところの「が」――については、いま扱っている「の」に近い印象を受けた。

・海に来て道に迷えるうれしさの郷愁に似れどふるさと知らず
     馬場あき子『地下にともる灯』

 はじめて来た場所なのにどことなく懐かしい感じがする、という経験があるが、そうするとさて、懐かしさとは、郷愁とはなにか、と考えてしまう。
 この歌の場合、「道に迷えるうれしさ」の感じが、結句の「ふるさと知らず」にばっさりやられてしまうところに歌の魅力がある。つまり上の句と下の句に若干の差があって、それが「の」によって接続されているところに、なんとなく短歌的な「の」の臭いを感じたのかもしれない。

第2回 短歌的な「の」2

 さて、前回挙げた二首は、「の」の使われ方としてはかなり近いものを並べた(読点を伴っている点でも共通している)。そこでは「足止め」という言葉を使った。一方、他にも上の句と下の句を、この短歌的な「の」で接続するやり方の歌はたくさんあって、細かいニュアンスの違いがある。

・わたしにもまだ夕方があることの頬しろき犬の過(よ)ぎる縁側
     小林朗人「わたしのいなくなった部屋」
・だんだんと冗長になるセックスの明日何時に起きるんだっけ
     望月裕二郎『あそこ』

 一首目、夕方があることの(証として、たとえば)頬しろき犬の過ぎる縁側があり、二首目、冗長になるセックスの(証として、たとえば)<「明日何時に起きるんだっけ」なんて考えている状況>がある。
 ここでは「の」の後に省略されている言葉を(証として、たとえば)に揃えてみたが、要は、1つの状況が「の」を挟んでくり返されている。

・ちがう目の高さにすむということのわたしがさきに見つけている猫
     吉岡太朗『ひだりききの機械』

 同じように、「ちがう目の高さにすむということ」の実際の状況として、「わたしがさきに見つけている猫」が例示されている。けれどもこの歌では下の句が、上の句のかなり直接的な例示になっているのに対して、小林の歌はややぼんやりしているし、望月の歌はやや距離がある。
 そういう差があるにはある。それは1首を鑑賞する場合においては大事な差であることには違いないが、1首全体の構造を見た場合には、そこに類似を見ても差し障りないように思う。

 ところで、こうして見てみると、すごく論理的な印象を受けるかもしれない。もちろん歌のことである。が、歌を読んだときにはそうは思わない。最後まで読んでしまって、(おそらく作者がそうであったように)、下の句から上の句へ再び戻る。
 上の句と下の句で同じ状況を述べているけれど、そこには高低の差があって、上の句から下の句へ流れたあとは再び上の句へ引き上げられる。あたかも、めぐりめぐった電流が、最後にはまた電池に引き上げられるかのように。

第1回 短歌的な「の」

 これから書いていこうとする「表現」というのは、何も目新しいものではなく、ごく一般的に使われている修辞の類を、少し自分なりに整理してみよう、というくらいの動機から書くものである。
 それで、短歌的な「の」というのは、例えば次の歌に現れるような「の」のことを言いたい。

・ストローを刺してあふれるヤクルトの、そうだよな怒りはいつも遅れて
     阿波野巧也「シティトライアル」
・ゴミ袋を提げつつ仰ぐ夜桜の、「家」を得て知るさみしさもある
     黒瀬珂瀾「吾子よ気付くな」

 一首目、頭から読んでいくと、「の、」で一旦足止めをくらう。それはおそらく作者にとってもそうで、そこから、<「怒り」という感情は「いつも遅れて」やってくるよな>という感想が出てくる。この場合は「そうだよな」、と言ってくれているけれど、二首目ではそれすらも隠されている(そのことによる気分の差がもちろんある)。
 普段使いの「の」は、主に連体修飾語として、つまり後ろに体言が続く形で用いられる。もちろん他にも意味・用法はあるが、普段使いでないという意味で、短歌的な「の」、と言っている。で、「ヤクルトの」「夜桜の」と言われたら、すぐさまその後に体言が続くことを期待し、そういう勢いで読むのに足止めをくらってしまう、この緩急、逡巡。
 例えば枕詞や序詞の終わりの「の」のように、「のように」くらいの気分でとることもできなくはないが、野暮な感じがする。一首の構造にしたがって、読者も一度立ち止まってみる、そうして少し「遅れて」やってくる感慨を味わうのが良いように思うのだ。

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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