凡フライ日記

山下翔と短歌

一首評/東直子(日当たりの)

日当たりの順に花がひらきゆく小さな皿の割れゆくように
     東直子『十階』

 小さな皿が割れる瞬間をびーっと引き伸ばして、スローモーションで見てみる。そうすると、「割れる」ではなく「割れゆく」様子を見ることができる。ふだんは皿の「割れる」瞬間しか見ることができないが、それは視覚の限界というだけのことであって、実際には「割れゆく」途中の時間や形態がある。それを引き伸ばして見てみるのだ。
 皿が割れてゆく、というのは、皿としての使命を終えてゆく、ということでもある。もっと大げさな言い方をすれば、皿が死んでゆく、ということだ。
 「花がひら」くことは一見華やかだが、しかしそれもまた花が死んでゆく近い将来を含んでいる。はかなさ、という言葉が、咲きゆくあるいは咲いている花にあてられることはしばしばあるが、そこにはこの死の予感がある。そう思うと、「花がひらきゆく」姿が、「皿の割れゆく」姿にぴたっと重なるではないか。

 さて、もう一度あたまから読み直してみる。するとどういうことか、この「ひらきゆく」は、むしろ木全体のことを言っているように見える。それは「日当たりの順に」とあるからだろうか。「日当たりの」いい「順」番でだんだんひらいていって、満開の状態になってゆく。これが上句の景ではないか、と。
 確かにそうなのだ。けれでも、そう読んでいって、「小さな」に行き当たる。この「小さな皿」が、ひとつひとつの花を思わせるのだ。「皿の割れゆくように」「花がひらきゆく」のだというように。
 このように妙なねじれが一首の中にあり、例えば、次々と小さな皿が割れていくように次々と花が咲いていく、という風にも読める。二つの「ゆく」が一首をねじっていて、不思議な雰囲気を演出しているのだ。だからこの「ひらきゆく」は木全体のことであり、と同時に、ひとつひとつの花のことでもあると言いたい。

 ところで花は、ぱっと咲く(ように見える)。昨日までは蕾だったのに、翌日見てみるといきなり花になっている。それは皿が「割れる」瞬間を思わせるが、けれども<花の時間>や<皿の時間>ではゆっくり(これがまた感覚的なのだが……)咲いたり割れたりしている、とも思える。ふだんは人間の枠組みで生活をしているけれども、実際、生活の場にはさまざまな時間感覚や遠近感があって、それがごちゃごちゃに混ざりあって存在している。
 例えば皿の「割れる」音は聞こえるが、「花がひら」く音は聞こえない。「割れる」音は聞こえるが、「割れゆく」音はあやしい。ここにも<皿の時間>と<花の時間>、それからそれを聞く<ヒトの聴覚>のずれがあるのだ。

 水を含んだ布をねじれば、その水を見ることができる。たっつぷり水があれば、少しの力でいいが、ちょっとしか含んでいなければ、強い力がいる。
 短歌のもつ力が、日常に対して相応かどうか、それはこの出てきた水を見ればわかるような気がする。もちろん、歌を作る側は手触りで力加減がわかることもあろう。
 様々なものが同じ場に混在し、しかし、いや、だからこそそれをねじることで、そのことが顕わになる。そんな一首ではないだろうか。 

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