凡フライ日記

山下翔と短歌

一首評/小池光(廃駅を)

廃駅をくさあぢさゐの花占めてただ歳月はまぶしかりけり
     小池光『廃駅』

 使われなくなってもう長い駅を、「くさあぢさゐ」の花が覆っている。そこまでの長い歳月を思うとき、ひどくまぶしく感じられる、という歌だ。それなのに、歌そのものからはまぶしさが感じられない。どうしてだろうか。

 上句、主語は「くさあぢさゐの花」である。人工物としての「駅」が自然物としての「あぢさゐ」に覆われている、という作りではない。「人工物は時が経てば廃れていくけれども、自然物はそうではない」という「国敗れて山河あり」的な邪念が入り込まないように、わざわざ「くさあぢさゐの花」を主語にしているのだ。
 ここで邪念とは、勘違いあるいは第一印象くらいのニュアンスで使っている。「廃駅」と「くさあぢさゐの花」の取り合わせを考えたとき、一見すると、単なる対比としての取り合わせに思われるが、これが邪念である。印象付けたいのはここではなくて、あくまで「歳月」である。だからこそ上句の存在感を消すことによって、情景の、そこに存在するということだけを歌ったのだ。

 それでいて下句も冷静だ。歳月「が」まぶしいとは言わずに、一定の距離をとっている。<歳月(というもの)「は」まぶしいものだなあ>くらいの温度で、まぶしさもひかえめだ。この距離感は、そのまま歳月の長さにつながる。駅がまだ使われていた頃の時間、そして廃駅になってからの時間、「くさあぢさゐの花」が占めるほどになるまでの時間、それをぼんやりたどりながら、「まぶし」いと言っているのだ。
 だからもちろん、はっきりと「歳月」を見ることはできていない。その情景から想像することでしか歳月は浮かんでこない。けれどもそのまともに見ることのできなさ、それゆえの美しさを「まぶし」いという言葉に託したのであろう。

 ところでこの歌では、あ段の頭韻が踏まれている。「廃駅」「あぢさゐ」「花」「ただ」「歳月は」「まぶしかり」という具合に、あ段の音が一首を貫いている。言葉の出ないようなまぶしさに、口が「あ」の形に開く、思わず声が漏れる、あるいはため息をつく、そういう「あ」だ。高音を出しやすい、明るさの「あ」とは別種である。この小さな「あ」の連続が、一首に穏やかさをもたらしている。

 この歌は「まぶし」くないと言った。それは、この歌自体がきらきらと光っているわけではない、というだけのことだ。そうしてふっと「歳月」のまぶしさを思えば、静かに押し寄せるこの歌の力に、ただただ圧倒されるばかりなのだ。

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