臨場感――虚構と文体と想像力と

吉岡太朗の短歌時評「短歌の自由」(『短歌研究』2018年1月号)から引く。

読者が「虚構」を問題視するのは間違っている。「虚構だ」と言いたくなるのは単に作品がつまらなかっただけだろう。そして作品が「虚構」であるにもかかわらず心を撃ったのならば、それは「優れた虚構」なのではなく、ただ単に「優れた短歌」なのである。



作品がつまらなかったときに、もし「現実風」の作品であれば、それを下手だと言いやすい。たとえば「ここはもっとこんな表現ができる」とか「正確さに欠ける」というふうに。しかし、それが「虚構風」の作品であれば、下手だと指摘するのは困難である。なぜなら、比較するべき「現実」や「正確」なものがないからだ。仮に作者にはその「現実」や「正確」なところがわかっていたとしても、読者はそれを一般には知り得ない。作者からの開示があったとしても、それをそっくりそのまま共有することは難しい。そこで「虚構だ」と言うのである。

――こういうふうに、読者としてのわたしの思考と行動を想像してみる。リアリティというのは「現実っぽさ」なわけだが、この「現実っぽさ」という表現は誤解を生みやすい。なにか1つの現実があって、それに対して「酷似している」とか「ぴったり重なる」とかそういうニュアンスを含んでしまうからだ。そこで私は「臨場感」ということばを思い浮かべるようにしている。

「現実っぽさ」「現実味」というのは、そのときそのときの個人個人の「臨場感」のことである。それぞれが瞬間瞬間に自分を置く世界の、いくつかの世界のなかのどこに自分がいることをより鮮明に感じられるか、それはおそらく同時にはたった1つなのだと思うが、それが作品世界であったとき、その瞬間、わたしはその作品にリアリティを感じていることになる。何か1つの現実に対してではない。自分を置きうるいくつもの世界に対して、なのである。そのいくつか、のなかには物理空間(いわゆる現実)も含まれうるが、それを基準にしたり、特別視したりする理由はない。

     *

もうひとつ、藪内亮輔の歌壇時評「リアリティという病」(角川『短歌』2018年1月号)から最後の段落を引く。

こう言っては身も蓋もないが、本当にリアリティを感じたかったら、散文や動画、漫画などで享受した方がずっといい。そもそもいろいろな表現様式の中から短歌を選んで、短歌という狭い窓を通して「事実」を変質させているのだ。そんなこと言ったら、短歌をする時点で「コスプレ」なのだ。目黒の連作の文体が山田にとって「「本気」が薄まっている」ように感じられてしまうとすれば、それは単にそもそもの文体の力が無かったのだ。



この2つのほぼ同時期に掲載された時評を交互に読みながら、なにか重なるところがあるように映ったのは、先に引いた吉岡の「単に作品がつまらなかっただけだろう」と、ここでの「単にそもそもの文体の力が無かったのだ」がまったくシンクロして思われたからだろう。

藪内さんの時評では、リアリティは現実(いま、わたしが生身の体を置いている、ここ)とはちがうところにもあって、そのことを読者・作者の両面から指摘している。吉岡さんの方も、読者の問題を論じながら、最終的には「短歌さん」(という巨大な作り手)の視点を導入して、作者サイドへの提案に至っている。このあたりの展開も織り合うようにわたしの中に入ってきて、その綱をのぼる思いでリアリティについて考えている。

作品世界のリアリティはどこから立ち上がってくるのだろうか。

     *

加藤治郎に「想像力の回復を」という文章がある(『うたびとの日々』、書肆侃侃房、2012年)。まず、東日本大震災後の短歌にとって「当事者とは一体だれ」なのかを問いながら、次のように述べる。

震災を自分の問題として受け止め、歌うとき、その人は当事者なのである。その源泉にあるのが想像力であることは言うまでもない。想像力は、直接的な体験を超える。



加藤の言わんとしていることは、シンプルに「直接体験したことを述べるだけが短歌ではない」ということだろう。つづけてフィクションの短歌教室が紙上で開かれているのだが、そこでは「直接体験したことこそが事実であり、それを短歌にするべきだ」という反論が批判をこめた形で演出されている。

実はこのあたり、先にあげた2つの時評とは温度がちがう感じがある。それが何なのかはっきりとは掴めないのだが、妙に「現実」との対比にこだわって「想像」を考えているような気がするのだ。

想像力の犯罪性(菱川善夫)と言われた前衛短歌から現代短歌は遠くまで来た。作品は現実の殻を破ることができない。日常の小さな事象にしろ、大きな事象にしろ、現実に追随するだけである。言葉で現実を変えるという発想は乏しい。



最後の一文に注目したい。ここでの「現実」というのは、読者としてのわたしが見ている(見うる)世界のことだろう。それはたしかに言葉によって更新されるものである。知らないものは見えないし、世界の切り分け方によって現実の見え方、いやもっとはっきりと「現実」そのものが変わってくる。しかしここには、「現実」はただひとつあるのであって、少なくともそれは1人に1個までなのであって、その「現実」をどれだけ言葉によって豊かなものに変えていけるか、という視線がある。あくまで、リアリティの発生する場所は、「現実」=「いま、わたしが生身の体を置いている、ここ」なのだ。

ここでリアリティということばを出したのは、加藤さんの文章とは全く関係なく、私が今リアリティについて思いを巡らせているからだけであって、実際、この文章には「リアリティ」ということばは一度(フィクションの短歌教室で)しか出てこない。けれども、「言葉で現実を変える」と発するとき、自らがもっともリアリティを感じる世界として現実がえがかれているような気がするのだ。

単に作品世界にリアリティを求めるのではなくて、そのリアリティが現実にも及んで、さらには現実を更新するような、そんなリアリティを求めているようにうつる。それはほとんど洗脳じゃないかなあ、と思う。そういう作品世界のあり方に、良いとも悪いとも言いがたいのだけれども、少なくとも今の私としては、現実は現実としてありながら、それとは別の作品世界がいくつも存在し、そこにひとときおじゃまします、というような楽しみ方のために、リアリティを追求したいなあという気持ちがある。

     *

少しどころか、かなり話が逸れてしまった。(それに加藤さんへの反論のようになってしまったが、そういう意図は全くない。)

加藤さんはここから、「切実さ」という批評が短歌の世界に蔓延していることをなげき、「ふわっとほほえむ顔が見たい」と言う。ここでは、やすたけまりの歌集『ミドリツキノワ』をめぐる小池光の発言が標的となっている。

小池光は『ミドリツキノワ』を読んで、作者を二十代の内向的な女性だと想像した。(略)が、作者は昭和三十六年生まれであり、親の世代だったかと落胆した。(略)むしろここでは、小池の期待を鮮やかに裏切った『ミドリツキノワ』の世界に注目すべきではないか。実年齢と作品世界の年齢の差こそ、想像力の総量ではなかったか。



加藤さんとしては、小池光の「落胆」には批判的なわけだが、翻って、『ミドリツキノワ』の作品世界のリアリティを思っている。確かにそうだろうと思う。しかしここで小池さんは作者の情報を知ってしまったわけで、そうなったときにもともとあったほどのリアリティは得られないかもしれない。

     *

話はふたたび冒頭の時評にもどる。

原則として短歌作品には作者名が求められる。作者名があることで、短歌の読者は作品の背後に一つの身体を見出す(たとえば斎藤茂吉と書いてあれば、斎藤茂吉という身体を見出す)。そしてその身体に作品を帰属させて考える。



ここから吉岡さんは「虚構」という問題が発生する仕組みを説明し、また、この「身体」に作者が縛られてしまうことを危惧する。そこで「短歌さん」が登場するわけだ。

この「短歌」と「作者名」にまつわる話にも、リアリティが関係してくるだろう。

短歌作品は短い。それゆえに作品世界から抜け出しやすいのではないだろうか。入っていくのも一瞬、出ていくのも一瞬。そういう一瞬のリアリティに懸けている。連作や歌集というスタイルも、もちろんある。そうすると話はすこし違ってくるだろうが、大筋では、「作者名」(というよりそこに付随する「作者情報」)という現実世界の強烈なリアリティ生成装置の前に、作品世界の力が失われがち、ということではないだろうか。リアリティというのは相対的なものだ。自分を置きうるいくつもの世界があって、そのうち今どこにいるのが最もそれらしいか、その「それらしさ」がリアリティである。現実世界のリアリティが強まれば、当然、作品世界のリアリティは弱まる。

短歌作品の作品世界をあたかも現実世界と地続きであるかのように演出する方法は、この「作者名」という強烈なリアリティ生成装置を作品世界にも巻き込むことで、一瞬の作品世界のリアリティを長続きさせ、また、強める効果を狙ったものではないだろうか。いや、もっとダイナミックに、「作者名」を作品世界に付加(リアリティ生成装置をずりずりと引きずって作品世界に移動)することによって、現実世界のリアリティを急速に弱め、すなわち作品世界のリアリティを一息に強める、そういう戦略ではなかったのだろうか。これはまこと、「言葉で現実を変える」ということだ。
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第9回 頭からかかる

 前回は、三句のオノマトペが上句・下句のそれぞれにかかって一首の詩情を豊かにしている例をみたが、もう少しラフな形のものを今回は二首とりあげる。

・近づいてくる近づいてくる神輿はるかなるあの夏の性愛
     小島なお「神輿」

 近づいて/くる 近づいて/くる 神輿、と定型の力学にそって読むのがいいように思う。近づいてくる、と同時に、何か強い衝動が「くる」、ということが強調されるようだ。
 お祭りの風景の一場面、「近づいてくる」神輿を見ながら、その勢いに「はるかなるあの夏の性愛」を思い起こしている。そしてそれもまた、「近づいて/くる」のだ。同じ作者に「噴水に乱反射する光あり性愛をまだ知らないわたし」という有名な歌があるので、そのことを思ってしまう。
 この歌については、以前にも九大短歌会のブログで触れたことがあって(あの夏)、似たようなことを書いている。
 そのときはおそらく、頭から二つのものへかかっていくやり方を、とくべつ意識してはいなかったと思うが、たとえば次の歌にも同じような構造がある。

・あざやかに季節は移り暗殺もやむなしといふ論の緻密さ
     大口玲子「寒気殺気」

 どういう論理でたどりついた結論なのか、「暗殺もやむなし」ということになってしまった。巧みに論を組み立てて常識をひっくりかえしてしまう手つき、そのあざやかさに困惑している。焦りを感じている。
 季節も、気づいたときにはすっかり移りかわっていて、もうもとへは戻れない。
 あざやかに季節が移り、すなわちそれだけの期間があり、そしてすっかり局面が変わってしまった。次の段階に、突入してしまった。もうやり直すことのできない議論、「暗殺もやむなし」という結果だけが残って、そうこうしているうちにたとえばことは実行され、そこからさらに展開していくだろう。

 二首ともに、スリルを感じた歌だった。

第8回 三句でつなぐ

・火に炙る魚うらがへしじぷじぷと西日があたる背中が暑し
     小島ゆかり『憂春』

 夕食のしたくだろうか、厨にたつ人の姿が見える。三句の<じぷじぷと>が、調理すれる側・する側の双方にかかっている。つまり、魚をうらがえしたところ、よく焼けて表面がじぷじぷと音を立てている。油がはねているかもしれない。一方で、そうやって調理しているわたしの背中にも西日があたっていて、全く魚と同じようだ、という場面なのだ。
 わたしの背中が<じぷじぷと>というのは少し大げさに感じるかもしれないが、そのくらいのほうが、面白みがあっていい塩梅になっている。

・てのひらにてのひらをおくほつほつと小さなほのおともれば眠る
     東直子『春原さんのリコーダー』
・ちよつと潤んだ夏の月出てまるまると太つた赤子抱いて出る母
     馬場あき子『あかゑあをゑ』

 同じように、三句目に<ほつほつと><まるまると>というオノマトペがあって、それが上の句・下の句のどちらにもかかっている。
 一首目、「てのひらにてのひらをおく」その感じをほつほつと、と言っている。やさしい手の置き方だ。そして手と手を重ねたことによって生まれる「小さなほのお」、その灯るさまもまた、ほつほつと、なのだ。二人に、静かな夜の時間が流れている。
 二首目、大きな夏の月、ちょっと潤んでいて艶がある。それを大胆に、まるまると、と述べながら、それが「太つた赤子」にかかっていく。そこまで読んでみて初句にかえると、「ちよつと潤んだ」が赤子にも母にもそれを眺めているひとにも、あるいは夏の、そこの風景そのものにもかかっているようにみえる。

・死後生殖、の果てに広がるびらびらの浜昼顔へ細き雨ふる
     大森静佳「顔を産む」

 初出は『短歌研究』2014年8月号。同じ一連に、「羊水はこの世かこの世の外なのか月の臭いがひどく酸っぱい」という歌があって、先に挙げた馬場の歌と重なる。
 死後生殖、の果てに広がるものは何だろうか、よくわからないけれどこう、びらびらとした襞のようなイメージがあって、それをつかもうとしている姿が浮かんでくる。そこから一転、<びらびらの>はごく自然に「浜昼顔」へかかって、風景は現実にひきもどされる。

第7回 枕詞

 手紙の書き出しには、季節の挨拶をもってくることが多い。何を書くにしてもそうだが書き出し、というのが一番難しくて、書き出すことさえできればあとはその流れで書けるのに、と思いながらうんうん唸って原稿用紙に向かっていた小学生の頃の、作文の時間などを思い出す。
 季節の挨拶、という一つの形式が、手紙を「書き出させる」役割を持っているのだろう、と思う。それに似た、という風に個人的にはそう思っているものとして、短歌における<枕詞>がある。枕詞は基本的に5音で、ある特定のいくつかの言葉を導く。

・あからひく朝青龍(あさしやうりゆう)のかなしみはモンゴル語にてその身に満つや
     大松達知『ゆりかごのうた』

 あからひく、が枕詞にあたる。赤みを帯びるという意味から、「朝」「日」「肌」などにかかるとされる。ここでは「朝青龍」(の朝)にかかっているわけだが、言ってみれば、こういう使い方もアリなのだ。
 朝青龍はモンゴル出身の相撲取り。日本に暮らし、日本で活躍しているわけで、もちろん日本語も話す。けれども言葉というのは文化や風土と切り離せないところがあって、育った国の言葉、というのがそのまま感じ方につながっていく。
 たとえば日本では小学校高学年から英語を習って、高校、大学までずっと英語をやり続けるけれども、それでも多くの人は、日本語で感じ、日本語で発想する。それと同じことだ。

・あかねさすIKEAへゆこうふたりして家具を棺のように運ぼう
     岡野大嗣『サイレンと犀』

 あかねさす、は茜色に美しくかがやくという意味から、「紫」「昼」「日」「照る」「月」「君」などにかかるとされる枕詞。イメージは先のあからひくに近いのだが、美しいとか、かがやくといった感じが「IKEA」にかかっている。
 つまり単に、照明によってあかるくなっているだけではなく、そこには家具があって、その先にはそれぞれの人の暮らしがある。暮らしてゆこうとする明るさ、美しさ、かがやかしさがあるのだ。
 それが一転、「棺のように運ぼう」とくる。この結句が、一首に緊張感を生んでいる。

・ゆうぐれが去るのを待ってぬばたまの洗濯槽に魚をあらう
     吉岡太朗『ひだりききの機械』

 「ぬばたまの」は、「黒」「髪」「夜」などにかかる枕詞だ。そこからさらに、「一夜」「昨夜」「今宵」など夜をあらわす言葉、あるいは転じて「妹」「夢」「月」などにもかかるとされる。ぬばたま(=射干玉)とは草の実のことで、それが黒くて丸いことからきている。
 この歌の場合、「ゆうぐれが去るのを待って」が「ぬばたまの」を導いている感じ、もある。つまり全体的に夜の、あるいは暗いイメージがあって、夜になったら洗濯槽で魚をあらう、という印象的な動きがあらわれる。何か、見られてはまずいことをしているような雰囲気があって、けれども決してふざけてやっているわけではない、という落ちつきがみえる。

・いつまでも裏返されぬぬばたまのオセロの駒のあぱるとへいと
     黒瀬珂瀾『空庭』

 ぬばたまの(黒の)オセロの駒、という感じだろう。つまり、オセロ盤の上で展開される攻防――白と黒の鬩ぎあい――に世界の情勢を重ねてみているのだ。アパルトヘイトとは、南アフリカ共和国の有色人種差別政策。1991年に法的には全廃されたが、「いつまでも裏返されぬ」まま白優勢が続いている状況、それを「あぱるとへいと」という表記に託したのだ。
 もちろんその反転だって、ある。
 いくつもの重層的なイメージが不穏な感じを漂わせている一首だ。そしてそれは、枕詞そのものが、用いられることによって喚起するイメージを濃厚にしてきた感じと重なってもみえてくる。

第6回 遠くをおもう2

 ごく近いものにたとえば触れながら、遠くのものを「おもう」方法を考えていた。今回は栗木京子の『しらまゆみ』から3首ひろってみる。

・無塩バター四角く冷えてゐる夜に離れて暮らす息子をおもふ

 これは直接手を触れているわけではない。けれども「無塩バター」は手に届くところにある。無塩の後ろに無縁を感じるのは大げさだろうか。そこまではいかずとも、「無塩」であることの味気なさとか、物足りなさのようなものが伝わってくる。互いに触れることのできないもの同士のわたしと「無塩バター」。それがわたしと「離れて暮らす息子」に重なる。

・生牡蠣を大根おろしに洗ひつつ処女にて死にしヒロインおもふ

 生牡蠣にグロテスクさがある。大根おろしで洗うのは、そういうやり方があったように思う。汚れをとるためだったかな、定かではない。ともかく特に突飛なことをやっているわけではないのだが、字面だけ追っていると、穏やかではない光景のように見えてくる。そしてその勢いのまま、「処女」のまま「死」んだ「ヒロイン」がでてくる。上の句の危うさを「処女」が引き継いでいるのだ。そしてその「処女」もまた、ひとつの届かなさのように思う。

・紅茶積むまま難破せし船おもふティーバッグの糸引き上げながら

 上の句と下の句の倒置によって、まず、<いま、ここ、でない>が提示されている。そこからぐーっと<いま、ここ>へ引き戻されるのだが、その感じと、「ティーバッグの糸」を「引き上げ」る動きが少し重なる。とは言え、下の句の動作が呼び起こすのはやはり、難破した船を引き上げる仕草そのものだろう。小さなティーカップの前では、神の手にもなるのだ。<いま、ここ>が<いま、ここ、でない>とはっきり一致するかのような錯覚である。

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生まれ。「やまなみ」所属、野田光介に師事。16歳より作歌を開始。2016年、歌壇賞候補、現代短歌社賞次席、「温泉」50首が話題になる。2017年、現代短歌社賞次席。
▶︎現在、鳥ノ栖歌会に参加。ツイキャスユニット「いいぞもつとやれ」、企画同人誌「tanqua franca」で活動中。
▶︎初期作品を「空を見てゐる」18首にまとめています。その後の2014年〜2017年の作品は『湯』『温泉』にまとめています。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はkyushu.sc.m.yamasho@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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