凡フライ日記

山下翔と短歌

実感から遠くなる言葉 -4-

(4)言葉から引き起こされる実感

 我々が言葉にするとき、それは誰かに伝えるためにそうするのであった。実感を記述する手段として言葉を選ぶのだ。このことに関して、『複素解析学I』(※1)の中に渡辺公夫が次のような文章を寄せている。

 日常、見聞し、経験することを記述するモノが言葉である。イメージがあり、それを表象する記号としての文字があるのであって、イメージの欠如などないはずである。音があり、しかる後に音声がある。おかげで、言葉を覚えるのに苦労したことはない。体験に支えられた言葉は単なる符丁ではない。



 まずイメージがあり、それを記述するために言葉がある。気分や雰囲気や概念が先にあって、それを伝えるために言葉を使うのだ。
 しかしこのことは同時に、言葉そのものがイメージを背負っているとういうことを意味する。同じようなイメージを表すモノの共通部分として言葉があり、それは、使われれば使われるほど、そのイメージを言葉そのものが備えることになる。そうなると、まず先に言葉があって、そこから引き起こされる実感というものがでてきても不思議ではない。
 寺山修司青春作品集の『少年歌集・麦藁帽子』(※2)の巻末に、三浦雅志が次のように書いている。

 はじめに言葉がある。意識された言葉が。それからおもむろに語りたかったことがやってくる。意識された思想や感情が。――だが、この過程は、一瞬後には転倒している。ほんとうは言葉が思想や感情を捉えたのに、人は思想や感情が言葉を捉えたのだと思い込む。語りたかったことを表現するために言葉が必要とされたと思い込むのだ。言葉という表現の背後に、いつのまにか語りたかったことが形成されたにすぎないのに、人は逆に思い込む。この転倒された思い込みは、やがて、言葉をうまく捉えることができないというもどかしさを生む。



 言葉を持っていて、その言葉を通して世界が見えているにすぎない、ということだ。
 我々は言葉を作り出すわけではない。それは生まれたときからすでに言葉があったからだ。もちろんここでいう言葉とは、辞書に載っているような、一般に認められて使われている言葉のことを指す。そういった、既成の言葉を通じて世界と接触してきたわけだ。
 確かに多少は新しい言葉を作ることもあるだろう。それは1つに「既視感がある」「自分ならではの表現を」という要請による。しかしこれは多くの場合、言葉をつくる、というよりは言葉の組み合わせを変えると言った方が正確だろう。もちろんオノマトペなど、新たに造られる言葉もあるだろうが、定着して言葉として普及する、というところまでは至らない。むろんその必然性はないのだが(あったとすれば、それは「自分ならでは」という要請に矛盾する)。
 もう1つは、時代の要請によるものだ。時代の空気感が、言葉を変化させるのだ。言葉が文化を作る。その文化があって、風土が育つ。そしてその風土にあって、言葉が生まれるのだ。微細な変化から大胆な展開までそのレベルは様々だが、こうやって少しずつ言葉は自身のもっているイメージをより鮮明にしていく。
 これは我々が言葉を作る、というよりもむしろ、言葉自身がそのように変化してゆく、と捉えた方がいいかもしれない。言葉を作る、という能動的な働きかけではなく、気づいたら言葉が変化していた、という受動的なものなのだ。
 
 そういうわけで、イメージを言葉にしている、という風に感じていることは、実はそうではなさそうだということがわかる。実際には、言葉を通して世界を把握している。ひとまずはある枠組みの中で世界を捉えて、それを追いかけるように言葉がやってくる。実感とは、言葉から引き起こされるのだ。
 そしてその中にある些細な違和感を表明することでしか、言葉にするということは成立しえないのではなかろうか。


※1 志賀啓成、1997、数学レクチャーノート[入門編5] 複素解析学I -基礎理論-、培風館、139ページ
※2 寺山修司、2003、寺山修司青春作品集:7 少年歌集・麦藁帽子、新書館、254ページ

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実感から遠くなる言葉 -3-

(3)言葉のもつイメージの違い

 誰かに伝える、ということに話を戻す。
 確かに言葉の習得には、誰かの言っていることを理解するという動機もある。例えばある言葉を知っていないがために笑いどころで笑えない、ということがある。そこに一種のもどかしさを感じ、その言葉を習得しようとするのだ。あるいは専門書を読むときなど、まず言葉がわからずにつまづく。こういう時も、そこに出てくる言葉を習得するというのは、書かれてあることを理解するためのものである。
 このように、一語のもつ力が極端に強い場合や、自分の普段使っている言葉の枠組みから大きく離れた世界に身をおく場合、言葉の習得というのは、そういった世界を理解する手段として採用される。言葉あるいは世界が日常とは違う磁場をもつとき、そしてそれを理解する必要を迫られるとき、言葉の習得はその理解のために行われるのだ。

 しかしそうでない場合、すなわち自分の日常的な範囲では、たった一語がわからないために全体が理解できないということはない。完全な理解は多少損なわれるかもしれないが、それでも話がわからなくて困る、ということは起きないだろう。それは想像力が理解を助けるからである。
 何となくの雰囲気や語感や言葉以外の情報をもとに、それらを統合して理解しようとする作用が働く。その結果、多少知らない言葉があっても問題にならないことが多い。それでも気になれば調べるのだろうが、辞書を片手にファッション誌を読んだりはしないだろう。
 この想像して補うという作業は、自然に行われるというよりはむしろ、自ら望んで行われている。小説を読むことには、想像する楽しみがあると言う。これは全部を規定されたくない、余白があって、そこを補いながら自分の中にいわば理想の世界をつくってゆきたい、そういう<想像欲>と、もっと言えば<想像への信頼>のあらわれである。
 他者の主張を理解しようと思うとき、この<想像欲>と<想像への信頼>がそれを助けてくれる。しかしこのことは同時に、その他者の意図とは違う理解を容易にもたらし得るということを表している。ここに伝えることの難しさがある。

 その誰かに伝えるということだが、誰かに伝えるために言葉にする、ということを我々はいつごろ始めるのだろうか。
 まだ言葉が上手く扱えないうちは、泣いたり駄々をこねたりして「お腹がすいた」とか「眠い」といったことを伝えようとする。しかし家庭外の他者と接するようになる、具体的には保育園や幼稚園に通うようになると、それでは解決できないことがでてくる。そこで誰かに伝えるための言葉と方法を覚えるのだ。それは思春期に好きな人へ思いを伝えるときのプロセスと同じである。

 それで伝えようとするのだけれど、同じ意味の言葉でもそこから連想されるものが違う。このイメージの違いが、伝えることの難しさを生む。「海」という語があっても、それは穏やかな春の海なのか、荒々しい海なのか、夜の不気味な海なのか、月の浮かぶきれいな海なのか、受け手の印象は様々だろう。同じものをみていても「美しい」と感じるかどうかはその人しだいである。
 この言葉はこういうイメージで使う、というある程度の共通認識を持っている世界においては、多少こういった行き違いは減るだろう。しかし一首における一語のイメージが作品全体に影響する短歌において、言葉のもつイメージの違いを意識しないわけにはいかない。言葉のもつイメージに頼っているという側面もあるのだから。

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実感から遠くなる言葉 -2-

(2)型の中で制約される言葉

 ある程度の期間、歌を作り、歌を読んでいると、五・七・五・七・七の型が身についてくる。この型を身につけてようやく、自分の心を短歌にのせることができるのだから、作歌を始めたばかりの頃は、とにかくどんどん作って自分の中にこのリズムを馴染ませるべきだ。字余りや字足らずといった破調の効果も、この型への意識、もっと言えば信頼感があってはじめて期待できるものである。だから、とにもかくにも始めのうちは定型に収めることを念頭におくわけことになる。

 いざ定型に収めようとすると、これがなかなか難しい。自分がこれまで使っていた語彙では追いつかないような実感を掴むこともある。また、これまで使っていた言葉が、実は実感から離れている、ということもある。それで、言葉を探しにいったり、実感を細かく分析してみたりするわけだ。
 短歌は短いけれども歌である。それゆえ歌としてのリズム(韻律)を整えることに苦心することもある。読みやすさであったり、歌の緩急や流れであったり、何度も口ずさみながら言葉を差し替えたり削ったり、並べ替えたりすることになる。

 しかし、しばらくすると定型に収めることに慣れてくる。この、慣れというものが実は怖い。簡単に短歌の型に収めることができるようになり、もっと正確に言えば、収まるような便利な言葉や表現を覚えてしまって、それで何となく短歌(のようなもの)が作れてしまうのだ。それが自分の中でパターン化され、たいして考えもしないうちに短歌の形になってしまう。
 この初心者特有とも言える現象は、たとえば弓道に見られる「早気」に似ている。弓道には矢を放つまでの所作があるのだが、的にあてようという意識が強くなるあまり、その所作にかける時間が短くなってしまう。その結果、思うように的にあたらなくなるというものだ。これは単に気が急いて時間が短くなることに問題があるわけではない。心静かに矢を放つ体勢をつくる、その繊細さを欠いてしまうところに問題があるのだ。
 短歌に話を戻す。たとえ始めのうちは言いたいことがあって、短歌にしたい題材があって、そのために言葉を選び、配置を考えていたとしても、その作業が失われてしまう。手っ取り早く短歌が作れてしまって、そこに違和感をもてずに蓄積されてゆくことになる。しかし短歌には弓道と違って的がない。自分の短歌が大きく的を外れていることに気づかないまま惰性で作歌を続けてしまう危険性があるのだ。

 骨格なき肉体はだらしない。そういう意味で短歌の型というものは確かに必要である。しかし骨格だけで肉体がないのは面白くない。そこに、自身の肉体性をどのように付加してゆくかが、作歌においてはむしろ重要なのだ。型のなかに、その制約の中でどのような言葉を流しこむか、そこに作歌の真髄がある。
 いかに論理的なことであっても核心は気分にある。自身が感じ取った雰囲気にこそ、短歌のエッセンスが詰まっている。自分の没頭する世界において感じ取った気分を、どのようにして伝えるか。そのために用語や概念を整備していくのは数学でも物理でも同じことだ。
 短歌には三十一文字という型がある。

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実感から遠くなる言葉 -1-

(1)実感から遠くなる言葉

 自分の記録のため、という場合を除けば、言葉にするという作業の凡そほとんどは、何かを伝えるため、という目的を持つ。それは短歌においても変わらない。日記として短歌を詠む人もあるが、そうでない場合は、自分が見たもの、感じたものを誰かに伝えようという意識が少なからずあるはずだ。
 しかしこのことは多くの場合、無意識のうちに行われる。すなわち、何かを伝えようという強い目的意識があって歌が作られるのではなくて、歌を作るということそのものに、何かを伝えるという要素が自動的に組み込まれているのだ。それゆえ言葉の斡旋に失敗する、ということが起こる。

 そもそも何かを伝えるために、その手段として「言葉」を使うのは、それは言葉を知った時からずっとのことである。しかし単に感情をそのまま言葉にするだけでは伝わらない、ということに気づき始め、誰かに伝えるための言葉、つまり表現方法というものを身につけてゆく。
 例えば初恋。この好きという気持ちをどう伝えれば、相手に届くのか、ということを考える。こう言ったらこう思われるかもしれない、この言葉では相手にわかってもらえないかもしれない、ここまで言うと逆に引かれるかもしれない、などと言うことを考えるわけだ。したがって思春期というものは、<誰かに何か自分の思いや考えを伝える>ことを特に自分の問題として意識し、乗り越えようとする時期でもあるのだ。
 ここではかなり意識的に言葉をつくることになる。しかし逆に言えば、こういう一大事でもない限り、意識的に言葉を選び、それを吟味して表現する、ということはなされない、ということにならないだろうか。
 だから作歌においては、いうまでもないが、よく言葉を吟味し、選択し、配置しなくてはならない。

 作歌の難しさというものは、そういう言葉の斡旋にあるのだが、もっと初歩的なことを言えば、実感を言葉にする、ということがそれなりに大変なのだ。
 一つの言葉で実感を表現するのはほぼ不可能であるから、いくつかの言葉を用いることになる。そうすれば言葉同士の交わりもでてくるであろう。あるいは、実感をそれらの言葉で被覆し得るとも限らない。だからと言って、大雑把な、全体を包むような言葉を用いれば、実感の繊細さは失われてしまう。
 こうして、言葉にしようとすればするほど実感から遠くなるのだ。だから、あー遠くなっているなあと思いながら、たぐりよせ、また離れを繰り返しながら歌を作っていかなくてはならない。
 作歌とは、実感を誰かに伝えようとする意志である。その意志に自覚的であるときはじめて、実感と言葉の、あるいは作者と読者の距離感をはかろうとする意識が芽生える。実感から遠くなる言葉をたぐりよせ、そして丁寧に(ときに大雑把に)実感を被覆してゆくことが、短歌を作るということなのだ。

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