凡フライ日記

山下翔と短歌

阿波野巧也「緑のベンチと三匹の犬」を読む1

 「詩客」というサイトに、阿波野巧也の作品「緑のベンチと三匹の犬」が載っている。阿波野作品の現在がよくあらわれている10首連作だなあ、と思ってうなりながら読んだ。

・父親とラッパの写真 父親は若くなりラッパを吹いている
   阿波野巧也「緑のベンチと三匹の犬」

 写真、というのは(って別に写真に限った話ではないし、なんなら短歌だってそうだけど)過去をうつすものである。けれど、その写真の中(に限った話ではないし、たとえば短歌とか歌集だってそうだけど、その中)で、そのものや人や、景色は現在形である。

 掲出歌ではまず「父親とラッパの写真」が示される。この時点で、父親とラッパをどのように結びつけるかは読者にまかされている。
 ——父親が楽器屋で働いていて、ラッパをみがいている。
 ——父親が趣味でラッパをやっていて、吹いている。
 なんでもいい。そこは一旦フラットに、「と」という助詞で並列に配される。

 次に一字空いて、もうひとつのかたまりへ。ここですこし、状況がわかってくる。
 父親は「若くなり」というのは奇妙であるけれど、いまの父親の像がわたしのなかに、あるいは実際にあって、そこから写真のなかの父親へ目線をうつすとき、たしかに父親は若くなる。父親は若いままで写真の中にいる、というふうな把握もできるだろうけど、そうではなくて、あくまで、わたしが時間をさかのぼって写真のほうへ向かっていく、この視線が一首の核である。そしてそこで、父親は「ラッパを吹いている」。

 ——父親とラッパの写真 父親が若くなりラッパを吹いている
 ——父親とラッパの写真 父親はまだ若くってラッパを吹いている
 ——父親とラッパの写真 父親がまだ若くってラッパを吹いている

 と、書き換えてみる。「父親は若くなり」のニュアンスがだいぶわかってくる。このあたり、もうちょっと詰めないと評にはならないけれど、ともかくおもしろかった。
 これは文体、というよりは情報の削ぎ方に魅力があるんだろうなあ、と思う。状況の示し方や、気分の出し方に独特の色味がある。このあたりをふくめて、2首目以降も検討したい。

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伊舎堂仁『トントングラム』を読む1

ラジオ体操の帰りにけんかしてけんかし終えてまだ8時半
   伊舎堂仁『トントングラム』(2014)

 夏休みなんかに朝から集まってやるラジオ体操、をまずはイメージした。6時半、だったかな、実際にラジオで流れるラジオ体操の音楽と解説をききながらするラジオ体操である。毎日通ったらなにかもらえる、みたいなカードをぶらさげて、一日ひとつスタンプをおしてもらう。というのをやっても、7時には解散、という感じだろう。「まだ」8時半、というのは、けんかするだけけんかして、それでも「まだ」8時半、つまり、こどもの朝は早い、なんでこんなに早いんだろう、というかこどもの一日は長い、その変な感じやある種の懐かしさがこの歌の肝だ、とまで思って読んだのに、いま、少し考えてみるとそうじゃないな、ということがわかる。
 まず、7時から8時半はけっこう長い。ちょっとけんかした、くらいのことにしては長すぎる。ラジオ体操の場所から家までの距離、歩いてか自転車か、帰るのにかかる時間をさし引いても、長い。それで歌をもう一度読んでみると、「けんかして」で上の句が終わるのに続けて「けんかし終えて」と、けんかする、が繰り返されている。上の句と下の句の間をはさんでのリフレインに、けんかの長さを感じることができないだろうか。かなりしっかり、けんかしたのだ。ちょっと口げんかした、とか、ちょっともめた、とかではない。一応はけんかし終えているけれど、なんだか終わってる感じがしない。いや、終わっているんだけれど、何かが残っている。こどものけんかみたいに忘れておわり、仲直りしておわり、なんならもう遊んでるさっきまであんなにけんかしていたのに、という呆気なさが、この歌のけんかにはない。
 つぎに、ふたたび「まだ」という副詞に注目したい。「まだ」8時半、というのを、その渦中にいるこどもが感じるかなあ、という不安が読んでいて残った。時間が全然経っていない、という意味の「まだ」で、たしかに時間が経ってないなあ、とかもうこんな時間なのか、とか、こどもであっても感じることではある。ただ、さっきのけんかの感じと合わせて考えると、どうもここにいるのはおとなのような気がする。ラジオ体操、けんか、まだ8時半、というこどものイメージを引き起こすようなことばで歌を作っていて、たしかにそのイメージがまず浮かぶのだが、しかるのち、そのこどもがにゅーっとおとなにすりかわっていく、そういう奇妙な作りになっているんじゃないか。
 というわけで、おとな、を想定してもう一度歌を読んでみる。おとな、でもまあふだんからラジオ体操をする人はいるし、そういう集まりもあるわけで、必ずしも夏休み、とは言えない。いつでもいい。つぎに、ラジオ体操から帰る、と言っているので、家からラジオ体操をする広場に行って、みんなでラジオ体操をして、それからまた家に帰る、ということだろう。その帰り道、というか帰りはじめにけんかがはじまって、だから結局まだ広場を出ていないかもしれない。帰り、というのはラジオ体操の後から家までの「時間」を表しているわけだ。それでひとしきりけんかして、けんかし終えて、はあ疲れた、っていうかなんでこんな朝っぱらからけんかなんだよ、なんか後味もよくないし。で、時計を見ると「まだ」8時半、という歌である。
 「まだ」というのはこの一首において、たんに、時間が経ってないことに対する「まだ」ではない。相当の気持ちがのった「まだ」なのだ。そしてこの「まだ」という副詞の、ひとつの感じを具体例といういわば比喩によって提示しているのがこの一首の肝心ではないだろうか、と、そういうふうに考えている。

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小池光『思川の岸辺』を読む1

一日の過ぎゆくはやさ凝視して妻と二人あり十一月二十日
   小池光『思川の岸辺』(2015)

 巻頭の一首。「マゼラン」という題のついた連作から歌集は始まる、その一首目の歌である。表現としては「妻と二人あり」の「二人あり」にまずひっかかるのだが、上の句の状況も実はかんたんなものではないような気がして読み返してみた。
 一日の過ぎゆくはやさ、というのは基本的にはどんな日でも等しいわけだが、この日は特別はやく感じられた、と読みたいきもちを少しこらえて、〈一日の過ぎゆくはやさというもの〉くらいにとってみる。そういうもの一般を指している、と読んでみるのだ。もちろん、結句を見れば「十一月二十日」とあって、ああ、この日が何か特別な日で、だから、そんな日だからこそ一日の過ぎゆくはやさが速いんだろうなあ、と思ってみることもできる。わざわざ日付を指定しているから、なにかあるんだろうな、と。ここで、ついつい「特別はやく感じられる」とか「一日の過ぎゆくはやさが速いんだろうなあ」と書いてしまったけれど、はやさ、と言っているだけであって、それが大きいとか小さいとか、つまり速いとか遅いとか、そういうことは書かれていない。この人はただ、じっと見ている。たとえば〈一日の過ぎゆくはやさというもの〉は等しいはずなのにこんなふうに遅い日もあれば、昨日のように速い日もある、さて、どういうことだろう、というふうに。それもできるだけ考えずに、起こっていることを目でとらえようと集中している。どういうことだろう、とは思っていても、それをなにか理論をひっぱってきて考察する、というふうではないのだ。その「凝視する」ような視線そのままに妻と自分とが居る状況をとらえたときに、「妻と二人あり」という表現がうまれる。(この接近をあらわすのが助詞の「て」である。)さらにその視線は保たれながら今日という日の日付へと至り、結句、十一月二十日、とくくられている。そういう意味でこの一首は、どんなきっかけであったかはわからないが、ともかくまず誰か、〈一日の過ぎゆくはやさというもの〉を凝視する人がいて、その人がその視線を保ったままに現実世界に触れ、妻と二人ある状況をとらえ、十一月二十日という日付にただりついた、そういう一首であろうと思うのだ。

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一首評/東直子(日当たりの)

日当たりの順に花がひらきゆく小さな皿の割れゆくように
     東直子『十階』

 小さな皿が割れる瞬間をびーっと引き伸ばして、スローモーションで見てみる。そうすると、「割れる」ではなく「割れゆく」様子を見ることができる。ふだんは皿の「割れる」瞬間しか見ることができないが、それは視覚の限界というだけのことであって、実際には「割れゆく」途中の時間や形態がある。それを引き伸ばして見てみるのだ。
 皿が割れてゆく、というのは、皿としての使命を終えてゆく、ということでもある。もっと大げさな言い方をすれば、皿が死んでゆく、ということだ。
 「花がひら」くことは一見華やかだが、しかしそれもまた花が死んでゆく近い将来を含んでいる。はかなさ、という言葉が、咲きゆくあるいは咲いている花にあてられることはしばしばあるが、そこにはこの死の予感がある。そう思うと、「花がひらきゆく」姿が、「皿の割れゆく」姿にぴたっと重なるではないか。

 さて、もう一度あたまから読み直してみる。するとどういうことか、この「ひらきゆく」は、むしろ木全体のことを言っているように見える。それは「日当たりの順に」とあるからだろうか。「日当たりの」いい「順」番でだんだんひらいていって、満開の状態になってゆく。これが上句の景ではないか、と。
 確かにそうなのだ。けれでも、そう読んでいって、「小さな」に行き当たる。この「小さな皿」が、ひとつひとつの花を思わせるのだ。「皿の割れゆくように」「花がひらきゆく」のだというように。
 このように妙なねじれが一首の中にあり、例えば、次々と小さな皿が割れていくように次々と花が咲いていく、という風にも読める。二つの「ゆく」が一首をねじっていて、不思議な雰囲気を演出しているのだ。だからこの「ひらきゆく」は木全体のことであり、と同時に、ひとつひとつの花のことでもあると言いたい。

 ところで花は、ぱっと咲く(ように見える)。昨日までは蕾だったのに、翌日見てみるといきなり花になっている。それは皿が「割れる」瞬間を思わせるが、けれども<花の時間>や<皿の時間>ではゆっくり(これがまた感覚的なのだが……)咲いたり割れたりしている、とも思える。ふだんは人間の枠組みで生活をしているけれども、実際、生活の場にはさまざまな時間感覚や遠近感があって、それがごちゃごちゃに混ざりあって存在している。
 例えば皿の「割れる」音は聞こえるが、「花がひら」く音は聞こえない。「割れる」音は聞こえるが、「割れゆく」音はあやしい。ここにも<皿の時間>と<花の時間>、それからそれを聞く<ヒトの聴覚>のずれがあるのだ。

 水を含んだ布をねじれば、その水を見ることができる。たっつぷり水があれば、少しの力でいいが、ちょっとしか含んでいなければ、強い力がいる。
 短歌のもつ力が、日常に対して相応かどうか、それはこの出てきた水を見ればわかるような気がする。もちろん、歌を作る側は手触りで力加減がわかることもあろう。
 様々なものが同じ場に混在し、しかし、いや、だからこそそれをねじることで、そのことが顕わになる。そんな一首ではないだろうか。 

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一首評/小池光(廃駅を)

廃駅をくさあぢさゐの花占めてただ歳月はまぶしかりけり
     小池光『廃駅』

 使われなくなってもう長い駅を、「くさあぢさゐ」の花が覆っている。そこまでの長い歳月を思うとき、ひどくまぶしく感じられる、という歌だ。それなのに、歌そのものからはまぶしさが感じられない。どうしてだろうか。

 上句、主語は「くさあぢさゐの花」である。人工物としての「駅」が自然物としての「あぢさゐ」に覆われている、という作りではない。「人工物は時が経てば廃れていくけれども、自然物はそうではない」という「国敗れて山河あり」的な邪念が入り込まないように、わざわざ「くさあぢさゐの花」を主語にしているのだ。
 ここで邪念とは、勘違いあるいは第一印象くらいのニュアンスで使っている。「廃駅」と「くさあぢさゐの花」の取り合わせを考えたとき、一見すると、単なる対比としての取り合わせに思われるが、これが邪念である。印象付けたいのはここではなくて、あくまで「歳月」である。だからこそ上句の存在感を消すことによって、情景の、そこに存在するということだけを歌ったのだ。

 それでいて下句も冷静だ。歳月「が」まぶしいとは言わずに、一定の距離をとっている。<歳月(というもの)「は」まぶしいものだなあ>くらいの温度で、まぶしさもひかえめだ。この距離感は、そのまま歳月の長さにつながる。駅がまだ使われていた頃の時間、そして廃駅になってからの時間、「くさあぢさゐの花」が占めるほどになるまでの時間、それをぼんやりたどりながら、「まぶし」いと言っているのだ。
 だからもちろん、はっきりと「歳月」を見ることはできていない。その情景から想像することでしか歳月は浮かんでこない。けれどもそのまともに見ることのできなさ、それゆえの美しさを「まぶし」いという言葉に託したのであろう。

 ところでこの歌では、あ段の頭韻が踏まれている。「廃駅」「あぢさゐ」「花」「ただ」「歳月は」「まぶしかり」という具合に、あ段の音が一首を貫いている。言葉の出ないようなまぶしさに、口が「あ」の形に開く、思わず声が漏れる、あるいはため息をつく、そういう「あ」だ。高音を出しやすい、明るさの「あ」とは別種である。この小さな「あ」の連続が、一首に穏やかさをもたらしている。

 この歌は「まぶし」くないと言った。それは、この歌自体がきらきらと光っているわけではない、というだけのことだ。そうしてふっと「歳月」のまぶしさを思えば、静かに押し寄せるこの歌の力に、ただただ圧倒されるばかりなのだ。

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