夢のあらすじ

おたがいを語り尽くした僕たちが寝起きにはなす夢のあらすじ
   伊波真人

訊かれたらいつも答える話がある。自分という人間をひらくのにちょうどいい、きまったエピソードがある。初対面の人にはそれを少しずつ小出しにしながら話して様子をうかがい、次にまた会うようなことがあれば、その続きを、あるいはまた別の、しかしきまったエピソードを順番に話していく。相手が自分に話すのと同じようなレベルで——それが「同じ」かどうかは確かめようがないのだけれど——話をする。

そのストックが切れて、もうお互い話すことがない。いや本当はあるんだけれど、そこからさらに関係を先に進めるか否か決めかねていて、さしあたり話すことがない。「おたがいを語り尽くした」にはそんな状況を思った。もっと情熱的に、あるいは親密に、ほんとうに自分の中身がからっぽになるまで「語り尽くした」のかもしれない。しかしそうだとしたら、次に話すことは「夢のあらすじ」だろうか。

——夢のあらすじかもしれないな、と思う。「語り」「尽くした」のだし、「僕たち」は「寝起き」に「はなす」(語るのではなく)のだから。暮らしをともにしていて、起きているあいだのことはもう二人のものになっているのかもしれない。しかし夢の中ではひとりひとりだ。二人でひとつの夢を見ることはできない(と思う)。そのまだかすかに掴みうるひとりひとりの部分を差し出して、けれどもそれは尽きることがない。のこりののこりを寄せ集めて掬いとっても、それを何回くりかえしても、どれだけ時間が経って、関係をいくら深めたところで尽きることはない。でもそれは、夢があるから、ではない。二人のものになっているように映る現実もまた、それぞれの感じ取るやり方によってしか存在し得ない。

「夢のあらすじ」は、そんな現実へのささやかな入り口なのだ。



*歌の引用は歌集『ナイトフライト』(書肆侃侃房、2017年)に依ります。
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いま釣り鐘のように

大森さんの比喩の独特な感じになぐられることがある。角川「短歌」1月号のなかにこんな1首があった。

感情がいま釣り鐘のように重い 錆びながら、もっとかがやきながら
   大森静佳「虹」

この「釣り鐘のように」の生な感じ、グロテスクとまではいかないけれど、皮膚のいちばん薄いところで接してくる感じに冷や冷やする。それを一字空けののちの下の句では、さらに鮮明にこちらへ渡してくる。

頭から読んでみると、「いま」がこの比喩をささえていることがわかる。

感情というのは釣り鐘のように重い、と一般論のような言い方になると、その比喩についていける側とついていけない側の差がよりはっきりしてくる。ここに「いま」がはいることで、感情というのが「いつもかどうかはわからないけれど、ともかくいまは」「いまの〈わたし〉にとっては」釣り鐘のように重い、と状況がごく限定される。そうすると、「そういうこともあるのだろうなあ」くらいの気持ちで受け止めることができる。

   *

三句切れのうた。上の句で大きく述べて、下の句でイメージをこまかにしていくスタイルである。これは三句切れだから、というわけではなくて「初句切れ+α」「二句切れ+α」「四句切れ+α」という形もある。まず大状況を述べておいて(ここで読者をつかむ)、それから具体的な状況を書き込んで景を鮮明にしたり、あるいはイメージを転覆させて、さらなる状況を提示したりする方法だ。

いわゆるニ物衝突をAB型と呼ぶならば、これはAa型という感じだろうか。
(「の」を蝶番やバネのように使って「情」と「景」を結ぶやり方があるが、こちらはAA’型と呼べるだろう。)

このAa型には、1発目であえて反発心を生んでおいて、それを利用して2発目で一気に転覆するような作り方がある。掲出歌の場合はそれとはちがって、1発目では反発心は抑えながら、2発目でおしてくるタイプだ。ただ、「釣り鐘のように重い」といったときに「釣り鐘」の「重さ」をたよりに感情の「重さ」をおしはかるのだが、下の句では「重さ」ではなくて釣り鐘の見た目、質感のようなところが述べられる。そういう意味では単なる塗り重ねではなく、実はスライドがあるのであって、転覆と言えなくもない。このあたりはさらに細分化できそうなので、Aa型のなかのバリエーションはもっと整理が必要だ。

さらに、「錆びながら」で時間の経過を思わせながら、その流れに逆行するかのように「もっとかがやきながら」と歌われる。aの中にさらにBbが潜んでいる構造だ。逆行、と書いてしまったが、「錆びる、すなわち、もっとかがやく」という筋もあるだろう。順接でなくても、「錆びながら、(しかし、逆に、そのことによって)もっとかがやきながら」という受け取り方も出てくる。

であるから当然、はいこのうたはAa型ですね、と片付けるわけにはいかない。

   *

さらに今回は空白や読点によって接続されている点、あるいは「いま」「もっと」のはたらきも関わってくる。結句の「ながら」の次の「ながら」を思ってしまう。



*歌の引用は『短歌』2018年1月号(角川文化振興財団、2018年)に依ります。

阿波野巧也「緑のベンチと三匹の犬」を読む2

 ひきつづき、阿波野巧也の「緑のベンチと三匹の犬」を読んでいく。
 前回は冒頭の一首を読んだだけで終わってしまったのだった。

プリンぐちゃぐちゃにぐちゃぐちゃにかき混ぜる 桜の過去のきみに会いたい

 これはどう読んだらいいのだろうか。
 プリンぐちゃぐちゃに/ぐちゃぐちゃにかき混ぜる、と2つのかたまりに分けて上の句を読んでみる。というのも、プリンぐちゃ/ぐちゃに、とやってしまうと「に」がどうもプリンと離れすぎて変な感じがする。五七五で切っていくのがなんだか野暮におもわれるのだ。
 プリン(を)ぐちゃぐちゃにかき混ぜる、という内容なのだけれど、ぐちゃぐちゃに、ぐちゃぐちゃに、と重ねられていて、ぐいぐい押してくる。すごい食べ方だけれど、(いや、食べないのかな。だれかに食べさせるとか、なにかの料理の隠し味として使うとか、もう食べらんなくなってぐちゃぐちゃしているとか、いろいろあるけど、)おいしくなるのかもしれない。習慣としてそうしているのか。「きみ」に教わったのかもしれない。
 食べもの、への向き合い方、というより、食べものとの付き合い方、ってすごくその人が出るし、そこには蓄積もあるわけだけれど、習慣、というのはまさにその人の自然なのであって、その一場面として上の句を読むことができる。そこを、五七五をくずしながらやっている。

   *

 一字空いて下の句。こちらは「桜の過去の/きみに会いたい」とシンプルに攻めてくる。いや、言い回しはちっともシンプルじゃないけれど、作りとしては。
 そうすると、上の句の「衝動」から下の句の「冷静」をみる、みたいな読みも出てくるわけだが、さっきは上の句のそれを「習慣」と呼んだので、そことはちょっとちがってくる。でも、いきなり、衝動的にプリンぐちゃぐちゃにするかなあ。(してもいいんだけど。)
 もう少し五七五に寄せると、プリンぐちゃぐちゃに/ぐちゃぐちゃに/かき混ぜる、と3つに分けて読むこともできる。すこし冷静な感じだ。丁寧にかき混ぜている。

   *

 プリンをぐちゃぐちゃにかき混ぜる、というのは習慣としてあるのだけれど、いまこのとき、その動作は意識され、より丁寧に行われている。で、その丁寧にあって、「桜の過去のきみに会いたい」が導き出されるのだ。

阿波野巧也「緑のベンチと三匹の犬」を読む1

 「詩客」というサイトに、阿波野巧也の作品「緑のベンチと三匹の犬」が載っている。阿波野作品の現在がよくあらわれている10首連作だなあ、と思ってうなりながら読んだ。

・父親とラッパの写真 父親は若くなりラッパを吹いている
   阿波野巧也「緑のベンチと三匹の犬」

 写真、というのは(って別に写真に限った話ではないし、なんなら短歌だってそうだけど)過去をうつすものである。けれど、その写真の中(に限った話ではないし、たとえば短歌とか歌集だってそうだけど、その中)で、そのものや人や、景色は現在形である。

 掲出歌ではまず「父親とラッパの写真」が示される。この時点で、父親とラッパをどのように結びつけるかは読者にまかされている。
 ——父親が楽器屋で働いていて、ラッパをみがいている。
 ——父親が趣味でラッパをやっていて、吹いている。
 なんでもいい。そこは一旦フラットに、「と」という助詞で並列に配される。

 次に一字空いて、もうひとつのかたまりへ。ここですこし、状況がわかってくる。
 父親は「若くなり」というのは奇妙であるけれど、いまの父親の像がわたしのなかに、あるいは実際にあって、そこから写真のなかの父親へ目線をうつすとき、たしかに父親は若くなる。父親は若いままで写真の中にいる、というふうな把握もできるだろうけど、そうではなくて、あくまで、わたしが時間をさかのぼって写真のほうへ向かっていく、この視線が一首の核である。そしてそこで、父親は「ラッパを吹いている」。

 ——父親とラッパの写真 父親が若くなりラッパを吹いている
 ——父親とラッパの写真 父親はまだ若くってラッパを吹いている
 ——父親とラッパの写真 父親がまだ若くってラッパを吹いている

 と、書き換えてみる。「父親は若くなり」のニュアンスがだいぶわかってくる。このあたり、もうちょっと詰めないと評にはならないけれど、ともかくおもしろかった。
 これは文体、というよりは情報の削ぎ方に魅力があるんだろうなあ、と思う。状況の示し方や、気分の出し方に独特の色味がある。このあたりをふくめて、2首目以降も検討したい。

伊舎堂仁『トントングラム』を読む1

ラジオ体操の帰りにけんかしてけんかし終えてまだ8時半
   伊舎堂仁『トントングラム』(2014)

 夏休みなんかに朝から集まってやるラジオ体操、をまずはイメージした。6時半、だったかな、実際にラジオで流れるラジオ体操の音楽と解説をききながらするラジオ体操である。毎日通ったらなにかもらえる、みたいなカードをぶらさげて、一日ひとつスタンプをおしてもらう。というのをやっても、7時には解散、という感じだろう。「まだ」8時半、というのは、けんかするだけけんかして、それでも「まだ」8時半、つまり、こどもの朝は早い、なんでこんなに早いんだろう、というかこどもの一日は長い、その変な感じやある種の懐かしさがこの歌の肝だ、とまで思って読んだのに、いま、少し考えてみるとそうじゃないな、ということがわかる。
 まず、7時から8時半はけっこう長い。ちょっとけんかした、くらいのことにしては長すぎる。ラジオ体操の場所から家までの距離、歩いてか自転車か、帰るのにかかる時間をさし引いても、長い。それで歌をもう一度読んでみると、「けんかして」で上の句が終わるのに続けて「けんかし終えて」と、けんかする、が繰り返されている。上の句と下の句の間をはさんでのリフレインに、けんかの長さを感じることができないだろうか。かなりしっかり、けんかしたのだ。ちょっと口げんかした、とか、ちょっともめた、とかではない。一応はけんかし終えているけれど、なんだか終わってる感じがしない。いや、終わっているんだけれど、何かが残っている。こどものけんかみたいに忘れておわり、仲直りしておわり、なんならもう遊んでるさっきまであんなにけんかしていたのに、という呆気なさが、この歌のけんかにはない。
 つぎに、ふたたび「まだ」という副詞に注目したい。「まだ」8時半、というのを、その渦中にいるこどもが感じるかなあ、という不安が読んでいて残った。時間が全然経っていない、という意味の「まだ」で、たしかに時間が経ってないなあ、とかもうこんな時間なのか、とか、こどもであっても感じることではある。ただ、さっきのけんかの感じと合わせて考えると、どうもここにいるのはおとなのような気がする。ラジオ体操、けんか、まだ8時半、というこどものイメージを引き起こすようなことばで歌を作っていて、たしかにそのイメージがまず浮かぶのだが、しかるのち、そのこどもがにゅーっとおとなにすりかわっていく、そういう奇妙な作りになっているんじゃないか。
 というわけで、おとな、を想定してもう一度歌を読んでみる。おとな、でもまあふだんからラジオ体操をする人はいるし、そういう集まりもあるわけで、必ずしも夏休み、とは言えない。いつでもいい。つぎに、ラジオ体操から帰る、と言っているので、家からラジオ体操をする広場に行って、みんなでラジオ体操をして、それからまた家に帰る、ということだろう。その帰り道、というか帰りはじめにけんかがはじまって、だから結局まだ広場を出ていないかもしれない。帰り、というのはラジオ体操の後から家までの「時間」を表しているわけだ。それでひとしきりけんかして、けんかし終えて、はあ疲れた、っていうかなんでこんな朝っぱらからけんかなんだよ、なんか後味もよくないし。で、時計を見ると「まだ」8時半、という歌である。
 「まだ」というのはこの一首において、たんに、時間が経ってないことに対する「まだ」ではない。相当の気持ちがのった「まだ」なのだ。そしてこの「まだ」という副詞の、ひとつの感じを具体例といういわば比喩によって提示しているのがこの一首の肝心ではないだろうか、と、そういうふうに考えている。

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生まれ。「やまなみ」所属、野田光介に師事。16歳より作歌を開始。2016年、歌壇賞候補、現代短歌社賞次席、「温泉」50首が話題になる。2017年、現代短歌社賞次席。
▶︎現在、鳥ノ栖歌会に参加。ツイキャスユニット「いいぞもつとやれ」、企画同人誌「tanqua franca」で活動中。
▶︎初期作品を「空を見てゐる」18首にまとめています。その後の2014年〜2017年の作品は『湯』『温泉』にまとめています。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はkyushu.sc.m.yamasho@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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