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小島ゆかり『馬上』(2016年)

装丁が好きな歌集である。「馬上」と大きく金の箔押しがあり、馬の流れるようなイラストが添えられている。

     *

鎌倉山からだに入りて寝ねがたし帰りきて風すごきこの夜

鎌倉山がからだ(の中)に入ってくる、と言う。入ってくる、ではなく、入っている、というのが今の状況だと思うが、そのためには「入ってくる」という状態があったわけで、それをさも当然であるかのように「入りて」の「て」で接続していく。ダイナミックというか、きしむようなからだ(鎌倉山のからだ、そして、わたしのからだ)が浮かんでくる。そのきしみのようなものが、「寝ねがたし」につながってくるのだし、「風すごきこの夜」ともひびきあうのだと思う。

このうたの場合は、完全な情景描写ではないが、小島さんの情景描写にはぬっ、と動的なときがあって、それを魅力的に思う。

鯉よりも水はなまめく 動く身の一尾一尾をうすくつつみて
円形脱毛うまく隠して七月の風よくかよふホームに立てり
次の次の駅で降りたくドアの方へドアの方へと身を捩(よぢ)るなり ※捩は旧字

「あたたかき感情」という一連から、ひとつづきの3首を引いた。この1首目の、鯉の動きと比較することによって、「水はなまめく」が鮮明にせまってくる感じ。先の鎌倉山のうたと通じるところがあるだろう。もちろんはじめは、「鯉よりも水はなまめく」に意表をつかれるのだけれど。2首目は円形脱毛をうたって、「風よくかよふ」の韻律がここちよい。この平然におどろく。(この「平然」というのは、小島ゆかり作品にこもる気迫のようなものを支えている大事なところだと思う。)3首目は気分もよくわかる。「次の駅」ではなく、まして「この駅」でもなく、「次の次の駅」というところが、満員(あるいはそれに近いような)電車の現実をとらえている。だからこそ「ドアの方へドアの方へ」というのにも、体感そのもののあらわれを感じる。まさしくこのように、計画的に、ドアの方へドアの方へ身体を移していく。

前の人の体温残るタクシーにふかくすわりて体温残す
君の名をのどぐろと知りし日ははるか無念いつぱい喉(のど)に溜まりぬ

1首目、「体温残る」はよくわかる。タクシーでは経験ないが、バスや電車などではよくある。直ちに座ることがやや憚られる。そういうときは、隣にずれたりする。タクシーの場合は、前の人がおりてすぐ乗る、ということが少ないのかなあ。乗ってしまえば隣にずれる、ということもしづらい。であるから、これは単に「あるある」という話ではなく、ここには「えっ」というおどろきも含まれている。そこで「体温残す」というのは、確かにそうなのだが、事実にとどまらず、体温に体温をかさねていくことをことさら意識していくところに、不思議な感覚があるうただ。2首目、下の句がまさに、という感じ。

ほかにも〈渓川の石間(いはま)を走る夏のみづ若きとかげのやうに光れり〉〈かぜのなかをあそぶとんぼの数ふえてとんぼのなかをふくかぜになる〉といったうたに、同じようにひかれる。

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「石鹼」という一連がある。挽歌ということだろう。牛乳石鹼のにおいが過去と現在を取り結ぶようにながれている。

おろしたてのしろい牛乳石鹼のにほひのやうな冬はもうなし
未来まだ白い個体でありし日の真冬のあさの牛乳石鹼
洗面台で泣けば石鹼のにほひせり父もう覚めぬ冬の病室
石鹼はむかしの朝の匂ひなりむかしの朝の父のひげ剃り

「冬はもうなし」「未来まだ白い個体でありし日」というところに、ただならぬ感じがにじんでいる。読みながら緊迫してくる。これらのうたは、牛乳石鹼のことをうたって、牛乳石鹼のうたではない。かつて流れていた時間や、そこにあった関係や、思い出やなつかしさが浮かんでくる。無念もにじむ。そして3首目。「父もう覚めぬ」、なのに、ここに石鹼のにおいのあることのかなしみが「冬の病室」に満ちている。4首目。「むかしの」と言ってしまう強引を、けれどもそれを、くりかえし声に乗せることで、この状況を引き受けていこうとするうたい口である。「平然」であり、そこに「気迫」がこもる。

家や、家族をみつめる眼差しは、もうずっと、小島ゆかりのテーマのひとつである。

その家の扉のごとし帰りゆく一人一人の夜の背中は
ゆるみたる捻子締めんとき家中の捻子がわたしもわたしもと呼ぶ

1首目は一人一人の背中に「家」を見ている。「家の扉」と言っているので、まずは「家」という建物のことを想定するけれど、でもまあ、それだけじゃないよなあ、と思う。直喩でもあるんだけれど、そこには隠喩もあるというか。2首目の「家」はまっすぐに建物の「家」だろう。「わたしもわたしも」という声は、にぎやかにひびくか、重荷のごとくひびくか。ほかに〈ハイエナは家族愛ふかき獣なりグレーのコート羽織ればおもふ〉といううたもある。

梅干しのおにぎり食めばまたなにか力要(い)ことできるとおもふ
ピーマンと茄子を炒めてつやつやの食欲湧けり真夏のひぐれ

家ということ、家族ということをうたうときに、そこに差し挟まれる元気を出す歌、パワーをつける歌、それも食べ物のうた、というのがずしりとくる。梅干しも炒め物もうまそうだ。

陽のにほふタオルかかへて 母よりも先に死んではいけないわたし

この「〜してはいけない」式の思いがわたしに重くのしかかる。ふとしたときに立ち止まり(この一字空け)、そのことがはっと意識されるのだ。「陽のにほふタオル」は「牛乳石鹼の匂ひ」とかさなってうつる。

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もうひとつ、外側を見る眼差しがある。

おそろしく月球潤む夜のこと子どもの臓器運ばれゆけり
花見弁当ひらけばおもふ ほほゑみに肖てはるかなる〈戦争放棄〉
そして四年、時間はながれみちのくに通雅さんと飲む夏の酒
海鞘(ほや)たべて海くさき海鞘あぢはひてなんにも言へずよそ人われは
リードにてつながる犬と人見れば人間である自分がいやだ

月球潤むと臓器移植。「おそろしく」には美しさ極まることの不気味がうつる。2首目、本歌取り。小島さんには政治を直裁にうたった歌もままあるが、こういう鮮やかな展開のうたにひきつけられる。3首目、4首目は同じ一連から引いた。東北、東日本大震災ということがある。「そして四年、時間はながれ」の流れるような歌いだしが季節のゆるやかにして迅速なめぐりを伝えてくる。夏の酒の一場面がぽっと浮かび上がる。「よそ者」でなく「よそ人」とうたうことで、苦み一辺倒にしない。そして5首目、こうやって「人間」や「人間であるところのわたし」を見つめる。見つめやまない。



※歌の引用はすべて歌集『馬上』(現代短歌社、2016年)に依ります。
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本田一弘『あらがね』(2018年)

帯に大きく「福島よ!」とあって、まずおどろいた。そこに「地(ぢ)の声の始源性を呼びもどし/ふたたびの安穏がやってくるまで/みちのくの骨太い詩魂が歌い継ぐ。」(/は改行を表す)と文が添えられている。背筋がのびる。

読んでみると、まさに帯文の感じで、「声」や「骨太い」や「詩魂」「歌い継ぐ」というのが、その通りに伝わってくる。歌集の始めから終わりまでが、そのトーンで貫かれている。『あらがね』というタイトルそのものであり、なにか揺るがない信条・信念のようなものが歌を動かさないようなところがあるのだ。一首が、石のような堅さや重さで立っている。

この読後感はこれまで経験がないな、とまず思った。そして、そのせいか、一方ではどこかで弱い部分や、動く部分や、透けてみえる部分を望むようなところが、読みながらあった。

     *

そういうわけで、この歌集の本線とはいくぶん違うところでぐっときたのが、歌集も終盤の「開運橋」という連作である。

旭橋、夕顔瀬橋、開運橋 北上川を掻きいだく橋

北上川は東北一の大河である。実際に地図をたどってみると、JR盛岡駅そばに開運橋がある。そのひとつ手前に旭橋、さらにもうひとつ手前に夕顔瀬橋がある。三つ並んだ橋なのだ。旭橋に立って、両サイドに夕顔瀬橋、開運橋を見ているような構図か。北上川の規模(長さ・大きさ)を思えば、この三つの橋を含む光景は全体のごく一部分のところである。その具体的な橋の名前を列挙するところからうたい起こされる。三つの橋のほかにもあまたの橋にいだかれて、北上川がある。盛岡駅周辺の北上川にかかる三つの橋——そこを起点にして、北上川の全体を、あるいはそこから東北の全体をも見るような歌だ。「搔きいだく」という動詞にも、その眼差しがあらわれている。

さて、連作の舞台は盛岡である。

歌を詠む少年たちを迎へたる北上川の水面光れり
みづからの歌のおもひをまつすぐに語る高校生のこゑ愛(は)

このあたりでおうおう、と事態がわかってくる。短歌甲子園だ(今年は明日かららしい)。各地から高校生が集まってくる。「迎へたる」「水面光れり」「こゑ愛し」などに気分があらわれている。ここでも帯文にあった「あらがね」感は確かにあるのだけれど、それありき、というのではなくて、それよりも目の前のことに反応している感じがある。あくまで「あらがね」感は背後にうっすら流れているのであって、ここでは、いまここの空間や感情が先行している感じを受けるのだ。いかにも現場、生、という感じがする。理屈の部分を経由せずに、目の前の対象に反応しているような。お、これまでとなんか違うぞ、となってくる。

もしわれが十七歳であつたなら二十分ではたうてい詠めじ

さらにもう一歩、高校生のほうへ踏み込んでいく。自分のこととして想像してみる。制限時間のなかで新作をつくるのだが、その「二十分」を自分ならどうか、と考えている。「たうてい詠めじ」は、謙遜というよりは羨望というふうに映る。憧れであるかもしれない。

それぞれに歌の持ち味引き出だす田中拓也の温(ぬく)ときことば
わんこそば食ふ少年ら少女らを目守(まも)れる小島ゆかりの笑顔

このあたりでいよいよ連作が膨らんでくる。田中拓也、小島ゆかり、の固有名詞が入ることによって、また、それぞれのキャラクターが描かれることによって、人物が動きだす。高校生の様子も見えてくる。会場全体の雰囲気が伝わってくる。

短歌甲子園終はればこの年の夏が終はるとゆかりさんいふ

ここが一番じんとくるところ。当然、連作の終わりも予感されてくる。

    「この橋を渡るときには目をつぶり願ひごとを唱へるといい」
八月のゆふべの開運橋を吹くしろたへの風よろこぶわれは

連作冒頭の「開運橋」にもどって、連作が閉じられる。ふたたびやってくる「われ」の時間。一首目の立ち姿とはちがった視線がある。どこかまだかたかった体が、一連を通してやわらかくなったような感じだ。ふっと息がもれるような安堵がある。そこにはおのずとさみしさも滲む。詞書が、「開運」ということに寄り添いながら、それが鼻につかないのは、一連の構成によるところも大きいだろう。

     *

8首からなる小品であるが、強く印象に残った。



※歌の引用はすべて歌集『あらがね』(ながらみ書房、2018年)に依ります。

ユキノ進『冒険者たち』(2018年)

ユキノ進の第1歌集である。さまざまな作品世界がつまった1冊だ。

貪るように生きていくのだ石塀のすき間に沿って茂る夏草
飛ぶ力を失いながら遠くなる水切りの石を見ればくるしい

とくに印象深い2首。くわしくは「現代短歌新聞」6月号の歌壇時評に書いたので、ここでは他のうたを読んでいきたい。

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午後ずっと猫がふざけて引きずった魚のまなこが見上げる世界

ユキノ進の代表歌だろう。初出のときからずいぶん話題になっている。「九大短歌」第四号にも、すこし書いた。一首のなかにくっきりと世界がある。そういう歌群の1つだ。一首においてもそうだが、ユキノ進は、連作にしても、歌集にしても〈作る〉歌人である。この歌集のなかにも、いくつもの〈世界〉があらわれる。読者はその〈世界〉を体験する。それは、『冒険者たち』というタイトルの「たち」が示唆しているところでもあるだろう。

待って待って、たて笛を姉は持ち出してつっかえながら吹くグリーングリーン
次はいつ帰ってくるのと聞く姉とだまって袖を握るおとうと
九階のベランダ越しの三人の影がおおきく手を振っている

単身赴任の一場面だ。もう時間なのだが、「待って待って」と父をつかまえる娘。学校の授業でやっているのだろう、練習して吹けるようになった「グリーングリーン」を披露する。父をひきとめる理由はなんでもいい。次、いつ会えるかはわからないのだ。そういうことを姉はできるけれど、おとうとは、姉の袖を握ってじっとしているしかできない。年齢の差がおのずと表れている。父と過ごした時間の差でもあるだろう。こまかな場面だ。帰る父の背を、見えなくなるまで見送るような「三人の影」である。夜、部屋の明かりが逆光となる。「影」の一語が、場面の印象を濃くする。

雪だるまは連れてけないな 雲(クラウド)に写真を乗せてふたりに送る

娘の「グリーングリーン」や、息子のまなざしに呼応するように、父も「雪だるま」を見せてあげたいと思う。連れて帰って(でも、表現としては「連れていく」になる。「帰る」ではないのだ)、一緒に遊びたいと思う。でも、当たり前だが、雪だるまは連れていけない。だから写真に撮って共有する。その手段がクラウドというのが、なるほどそういう使い方ができるなあ、と妙に納得する。雪の縁語の「雲」を表記しながら、クラウドへ転じていくところなど、こまかな采配にうれしくなる。

双眼鏡で三百円分見る景色 生きることまたいつか死ぬこと

100円玉を3枚入れて、決まった時間使える双眼鏡。展望所などによくあるものだろう。たしかに、「三百円分」である。そこにある景色は変わらずずっとあるのに、双眼鏡を使って見ることができる時間はいっときだ。〈世界〉はここにあるのだが、わたしが見ることによってはじめて《世界》として認識される。よこたわる〈世界〉と、生きて、そして死ぬこのわたしの《世界》との関係が浮かんでくる。グリーングリーンの歌詞に出てくる、「そして」を挟んだ体言のリフレインが、ここでの「また」を挟んだ体言のリフレインと重なってうつる。

     *

ほかにも、職場という〈世界〉がえがかれていて、歌集の中心的な話題となっている。あるところでは戯画化しながら、しかし投げられる球は重い。1首だけ引用しておわりにする。

人がひとを裁く疚しさ 意欲とか責任感まで評価するのか



※歌の引用はすべて歌集『冒険者たち』(書肆侃侃房、2018年)に依ります。

東直子『十階 短歌日記2007』(2010年)

東さんの歌について、ずっと不思議におもっていることがひとつあって、それは字足らずの歌である。

字足らずに気づいていないのではないか、と思うくらいには、あきらかに違和感があるのに、しかし自然な表情で音数が足りていないことがあるのだ。「気づいていないのではないか、と思うくらい」というのは説明のためにそう言っただけで、実際に気づいているか否かは問題ではないし、ここでの話題でもない。独自の韻律感覚があるなあ、と思うのだ。きっと、わたしの音読とはちがう、一首の読み下し方があるのだろうと。

黄色い花だけあればいい あとは全部持っていってね (1/31)

だから、この歌はむしろはっきりと(しかも一字空けによって、より一層はっきりと)三句が欠落していることがわかるので、不思議でもなんでもない。「黄色い花だけあればいい」の「黄色い」とか「だけ」とかを浮遊させておくだけの空間が必要だし、それがあることによって、「あとは全部持っていってね」がすんなりと受け入れられる。しいて言えば、四句の「あとは全部」の字足らずが気にはなる。ただ、ある程度は、その前の一字空け・三句欠落のエネルギーに回収されているからなのか、初読のときにはつまずかなかった。

(五/七/五)/(七/七)という定型をどう捉えるか、というのは大きな話題である。

5音、7音、5音、7音、7音というそれぞれのかたまりを意識しつつ一首を構成する、というのが一般的なのだろうか。どうだろう。トータルで31音になっていればとにかくよし、そこにきっちり音を詰めていく、というスタイルもある。このスタイルは、読者のわたしにとっては少し息苦しい。うまくやらないと、読んでいて心地よくないのではないか、と思ってしまう。でもそれも、単に、読み方の問題なのかもしれない。

作者のわたしは、5音とか7音ということをまったく意識しないというわけではないが、それを絶対とはしない。5音、7音、31音ということをふだんは忘れている。そしてそれは、多くの場合、字余りを引き起こす。それがなぜかはわからないが、そういう作者であるところのわたしが読者になったとき、字足らずに意識がむかうのは自然なことなのだろう。

そういう事情を差し引いても、東さんの字足らず(と呼ぶのもなんだか的外れのような……)は気になるし、やっぱり不思議だし、魅力を感じる部分と、わからないと感じる部分とがまじったままである。

日当りの順に花がひらきゆく小さな皿の割れゆくように (3/24)
あの窓の中に時を置いてきたもう取りにいくことはできない (10/24)

これらの歌はどうだろう。二句に字足らずがある。「順に花が」、「中に時を」。たまたまなのか、構造も似ている二首である。私の違和感のおおよそはこういうところにあると思う(それでも、ピンポイントではない)。どう音読するのがいいのだろう。「順に、花が、」「中に、時を、」と読点をはさみながら読んでいる。そこでなにかを確かめるような感じがある。読み流してはいけないと言われているような感じもある。

それでいいのか。もしかしたら、上の句全体を一息に読むのがいいのではないか。あるいは「日当りの順に/花がひらきゆく」「あの窓の中に/時を置いてきた」と読むのがいいのではないか。いくつか想定してみて、困ってしまう。どれも、よさそうでもあるし、どこか違うような気もするからだ。

     *

さて、ここまでの話はいったんおいておいて、韻律のことをもうひとつ言えば、リフレインの魅力がある。

裏側に咲くのが好きな花もある町へゆこうか誰とゆこうか (3/19)
男たちの悲鳴のような海鞘(ほや)かめばほのぼの甘しそののち苦し (5/3)
まだ土を知らぬ足裏しめらせて眠る子泣く子見つめやまぬ子 (6/11)
ときどきは名前を変えて呼んでみる カケル、タカトシ、シズク、水鳥 (7/8)

1首目、2首目は「裏側に咲くのが好きな花もある」や「男たち」「悲鳴のような」のような視線やことばの掴み方に東さんらしさがあると思うので、下の句のオーソドックスなリフレインは、あくまで、そこからの接続としてあるものだろう。と思うけど、レフレインというのは、韻律の力をつかって詩的飛躍をスムーズにするものである。一首の世界、とくに比喩や抽象の世界に読者が入っていく場合には、おおいに助けになるものだ。そういう点で注視した。

3首目、4首目の下の句のリフレインの形はさらにのびやかにイメージが展開していく。あるいは、より細かく世界が描かれていく。とくに4首目は、名前の羅列に妙な説得力があって、一発で覚えてしまった。

十階の窓より見える六階の空家の中の青い引き出し (7/27)

この「の」の重畳は、佐佐木信綱の〈ゆく秋の〉と同じ作りだが、上で挙げたようなリフレインの延長にあるような気もしてくる。読者を、いまいるところから、別の世界につれていってくれるエスカレーターのような「の」の重畳である。

     *

その、一首の世界のことである。ものや人の存在感が異様にあるうたがある(たとえば8/11の〈夏の朝めざめ損ねて湿りたる粘土細工のからだ重たし〉もそうだ)。一方で、ほとんど祈りのような、透明感だけがあってものや人の存在感のうすいうたも多くある。

あれが最後だったんだなあと思うのか光る窓へと手をふっている (1/21)
エレベーター開きあなたが現れてはじめて出会うひとに思えた (2/22)
ただそばにずっといてくれるだけのたったひとりの人ほしかった (3/11)
片寄りて花びら池の面(も)に腐る そんなふうでも愛したかった (4/9)

1首目、「光る窓へと手をふっている」で相手の存在感がうすくなる。もう窓しかない。あるいは光しかない。2首目の「はじめて出会うひとに思えた」も、あなたは「あなた」であるというより、「あなたというもの」という感じだ。3首目、「たったひとりの人」の不在感は、「人ほしかった」という助詞の省略によって際立った。「そんなふうでも(いいから、とにかく)愛したかった」でも、もうかなわない。4首目も、手をのばしても、もう届かないものへの思慕がある。

     *

凛としたうたにも魅力がある。こんどはすっきりと、相手の顔が見えてくる。ものが、鮮明に色をもつ。

草の影にいた少年が葉の裏の青年になる 夏がはじまる (4/27)
きみは今だれがいちばん好きですか砂場の奥にしずむ王冠 (5/12)
夏休みの初日の朝のうすぐもり短い髪の兄のくびすじ (7/18)

1首目、ぼんやりとした少年から、輪郭がでてきて青年になる。それが、「草の影」と「葉の裏」でかきわけられている。2首目、「きみ」にとっての「今」や「いちばん」がずっとそうではないけれど、それが、だからこそ存在感をおびてくる。わたしにとっての「きみ」は、「あのころ」の「いちばん」だったのかもしれない。3首目、「短い髪の兄のくびすじ」が印象深く浮かび上がってくる。上の句の状況が、臨場感をかきたてる。

いま夏なので、こういう夏のうたにひかれるのかもしれない。



※歌の引用はすべて歌集『十階 短歌日記2007』(ふらんす堂、2010年)に依ります。

浦部みどり『匂いむらさき』(2018年)

Ⅲ章からなる歌集である。そのⅠ章に表題歌がある。この表題歌に、一冊にこもった力がまずは率直にあらわれているように思う。内容の部分でもそうだし、あるいは修辞の部分でもそうである。表題と表題歌の関係としては、当然のようであって、しかし実際には稀有なことではないだろうか。そのあたりをたよりに読み進めた歌集だった。

老父母の保護者となりてゆくわれか匂いむらさきは花絶えず咲く

保護者であった父母が年老いていく。その父母に対して、次は自らが保護者となってつきあっていく。三句は「ゆくわれか」とあるので、そのような状況へ推移していく途上にあるのだろう。完全に保護者となってしまったのではなく、少しずつ、そうなっていくのだ。このときはまだ、その過程にある。下の句には、そのことへの矜持というか、覚悟というか、意を決するような立ち姿があらわれている。匂いむらさきは、というゆったりとした韻律・内容に対して、花・絶えず・咲く、という細切れの韻律・密な内容を接続させるところに、その姿をはっきり見ることができる。

そのほかⅠ章から4首引く。

朧月の白き黄昏さびしさを捨つべき海はめぐりにはなし
沈丁の花の匂いの漂いてゆき止まりなる路地が明るし
夏負けの五体を夜ごと横たえる布団の上に棒切れのごと
母の命保つ一匙と思いつつ唇の間(あい)より粥を入れおり

1首目の「めぐりにはなし」や2首目の「ゆき止まりなる」、3首目の「棒切れのごと」というふうに、一首のなかにひとつ捩れがある。一首が詠いおろされるときの、そのままの力のはたらきや、音の流れとはちがったものがひとつ入り込む。その捩りの力に引き止められるようにして、読者は歌を読んでいく。であるから、なかなか一首を離れられない。ふしぎな読後感と思う。

4首目は「入れおり」がなんとも切ない。歌になることばや、状況や、景色や韻律とはちがうところで、ある種の〈現実〉が横たわる。その〈現実〉が、手づかみで歌に放り込まれるようなところがあって、それが読者をながく立ち止まらせるのだと思う。

     *

つづいてⅡ章から。

父のいて母いて夫と娘いて春の宴の桜まぼろし

往時のにぎわいを「まぼろし」とうたう。誰もかれもがいて、元気で、にぎやかだった一時代である。そう読みたくなるような上の句のリフレインである。「父のいて」まではわりあい冷静なのだ。しかしここにあった助詞の「の」が抜けて、「母いて」「夫と娘いて」とつづいていくところで一首は動き出す。そのいきおいのまま、「春の宴の桜」とたかまっていく。それが最後、「まぼろし」である。この落差に動揺する。

夕風の吹けば偲ばゆ湯上がりの浴衣姿の母の襟元

「襟元」まで歌いこむ、歌のなかに巻き込んでいく、読者の視線を逸らさせないところが、一首に緊張感を生んでいると思う。Ⅰ章に〈母上にあまえて暮らす平穏の日々よ永かれ夜着の糊の香〉とあって、これも「糊の香」までうたうことによって力を得ている。「の」の連続の先に、読者の視線も合わさっていく。だから、「襟元」や「糊の香」が濃くとどく。

新盆の数だけ淋しき思いあり香をまといて帰り来たれり
麻酔より覚めてきびしき夫の貌見守るのみのひと夜のながさ

1首目は「淋しき思い」→「香をまといて」、2首目は「見守るのみ」→「ひと夜のながさ」という運びに、共通の歌の形がある。

     *

さいごにⅢ章から。

悲しみの夏はゆくとも悲しさは置いてゆくのか九月の窓に
もっともっと言えばよかった「ありがとう」もう届かない彼岸の貴方へ

143ページに2首並べて置かれた歌である。「悲しみの夏」という認識をたよりに、そこから「悲しさは置いてゆくのか」と踏み込んでいく。ある種のリフレインである。「悲しみ」と「悲しさ」はどちらも名詞であるけれど、その語のもつ微細なちがいが歌を通して伝わってくる。言語化されていない状態から言語化され分化されてゆく、その途上に、〈うた〉というものがあるのではないかと思う。肌感覚として共有できないことでも、〈うた〉があることで、そこへ手がとどく。共通認識のないところへアクセスできる。「九月の窓に」というささやかな結句が、そんなことを思わせた。「言えばよかったこと」「もう届かないこと」を残して、夏が過ぎてゆく。

柿の皮くるくる剝きて終りまで長く続けりひとりの真昼

山鳥の尾のしだり尾の式の序詞であろう。絶頂の一時代はとうの昔に過ぎ去って、「老父母の保護者となりてゆく」その先に、どこまでもどこまでも続く長い「ひとりの真昼」が横たわっている。「終り」への意識にはっとする。



*歌の引用はすべて歌集『匂いむらさき』(2018年、角川文化振興財団)に依ります。

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。歌集に『温泉』(2018年)がある。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はkyushu.sc.m.yamasho@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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