凡フライ日記

山下翔と短歌

伊藤一彦 第十一歌集『月の夜声』

 2007年の1年間、『歌壇』誌上に連載した360首が収められている。

 ・西よりも東のくらき夕空をあふぎてゐたり雲ほのあかし
 ・夕映えの褪せ始めたる抜け道を幼きとふたり急ぎ帰りぬ

 夕方が終わるということは夜が始まるということでもある。一日が終わりゆく中、始まる夜への眼差しがあたたかい。それは歌集のタイトルにもある<月>への思いいれによるものであろう。陽が沈むことで見えてくる別世界がそこにはある。

 ・鮟肝をのみどの奥に送りつつあとかたのなき歳月おもふ
 ・刺身にし秋刀魚食べたり月よりもやや暗き色の肝醤油につけ

 月夜の肴はまた格段に美味い。
 1首目、あとかたもなく飲み込まれるのは何も食べ物だけではない。そこに過ぎゆく歳月が思われるのだ。2首目、秋刀魚の肝の色にも月をみる豊かさ。
 肝心なものはいつもどこか忘れたころに必要になるようなところがあって、それをどうこういっても仕方がないのだが、そこにある翳りが、自然への目線の中に混じりこんでくる。しかしそれらは雄大な翳りである。

 ・空の青もらひ流るる大淀川こゑを漏らさずゆつたりと行く
 ・春の陽のやはらかきけふ空の青はね返すなく海の青照る

 川の流れのように歳月は過ぎてゆく。失うものもあれば、得るものもある。影響を受けることもあれば、影響を与えることもある。見えてくるものもあれば、見えなくなるものもある。どんなものでも蓄積されるわけではない、その不自由さがゆえの自由さ。そういうことを思うとき、空も海も、川も山も野も木々も花々も、それぞれの色をもってそこに在ることがより一層強く感じられるであろう。 

 ・夏椿まもなく咲かむ素裸のつぼみかすかにうすみどり帯ぶ
 ・風ふけば風になりゆく空見れば空になりゆく子どものからだ
 ・バス停に忘れしカバン取りに行けばわれを忘れて静けきカバン
 ・薄墨の空より降れる細きあめ青き稲の穂揺らさず濡らす

 慌てなくていい。焦らなくていい。時には無駄なこともいい。そうやってもがいてみて、上手くいかなかったり、時々上手くいったり、また落ち込んだり、腐ったり。そういう目まぐるしい動きの中で、なるようになり、静かにそこに在るだけのものの存在を思うとき、ときどき無性に月を眺めたくなってもいいじゃないか。

 ・夜遊びもろくろくできず家に居る 眼と耳のある月と思ふ夜
 ・一人来てつゆのはれまの浜に見つ海より上る月のフェード・イン
 ・寝室に行けばわれよりも早く来てベッドに待てる月光に触る
 ・掌(てのひら)の上に載せゐるつきかげをそよ吹く風はみださずに過ぐ

 どんなに目を見開いても見えなかったことが、目を閉じたら見える、ということがある。陽のあたらない、(しかしそれは陽の光を反射させた)月影のつつむ世界でしか見えないことがあるのだ。

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石川美南 第一歌集『砂の降る教室』

 作歌を開始してから7年間の、353首が収められている。

 読みやすい歌集、というものが、その良し悪しは別として確かに存在する。その多くが読者の個人差によるのだろうが、共通して言えることの1つに「ある程度の型がある」ということが挙げられる。すなわち、同じような<型>の歌が全体にバランスよく配置されていて、それゆえ歌集を読み進めるにつれて、読者はその<型>のもつリズムに慣れてくるため、すらすら読めてしまう(ように感じる)というわけだ。
 俵万智の『サラダ記念日』はその代表例とも言えよう。俵のように、石川美南もまた、得意とする型をいくつか持っている。その1つが次のような歌だ。

 ・わたしたち全速力で遊ばなきや 微かに鳴つてゐる砂時計
 ・はつなつの芝生のうへに右利きの恋人ばかりゐるつまらなさ
 ・フラミンゴの群れの前にて腰痛にならぬかと問ふてゐる老婦人
 ・流星の重さを確かめるやうに煎り豆投げてゐる日曜日
 ・レポートの締め切り近き図書館でじりじり読んでゐるトルストイ

 下の句が句またがりで、「(~して)ゐる<体言>」となっている。2首目の「ゐる」以外は全て補助動詞である。また1首目以外は、初句にも「<体言>の」という型がある。
 この読みやすさは、栞の中で岡井隆が言っている「安心して読める」ということに通じている。そこには、短歌の手法や文体を自分の中に取り込み、その枠組みに収めたり、枠組みからこぼしたりしながら作歌する態度が見えてくる。
 こういった、両極端の先につかむバランス感覚に優れているのだろう。口語と文語、深みと面白み、現実と物語など、いくつもの交わりと揺れの中に、安定感が達成される巧みさがある。

 ・木洩れ日が壁に描くのは冬眠と冬眠の間の短き日記
 ・触れられしところに触れてみる夕べ窓に昨日の海は来てゐる
 ・おまへなんか最低だつて泣きながら言はれてみたし(我も泣きたし)
 ・空つぽの水筒持ちてみづうみに沈める羊雲盗りに行く

 二つの世界の交わりに立ち向かうことはそう簡単なことではない。交わりを無視して二つの別の世界だと思いたくなることもあるだろう。実際その方が楽であるし、あるいは異種のものの共存として目新しさがあるし、何より<それっぽく>見える。しかし交わりは現にあるのだから、そこを無視することで失われる世界がゆっくりと現れてくれば、歌は途端にむなしく崩れていく。
 交わりは、異なる世界の架け橋でなければ、互いをいがみ合う戦場でもない。それは、二つの世界に属するという意識が、交わりにはそもそもないからである。交わりを客観視することなく、自然にその中へ入ってゆけば、そこから生まれる歌は、もう交わりのものとして存在することになるのだ。

 ・くわくわと輪唱つづき父母の秘密もやがて喋つてしまふ
 ・窓がみなこんなに暗くなつたのにエミールはまだ庭にゐるのよ
 ・拾いたる捨て猫をまた捨てにゆく思ひ出のごと ひらく雨傘
 ・夕立が世界を襲ふ午後に備へ店先に置く百本の傘

 短歌のもつ型と、石川のもつ流れが交差するところに、この歌集が湧きあがった。

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