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花山多佳子『鳥影』(2019年)

花山さんの第11歌集が出た。

蒸し暑きこの夕まぐれ新米に手をさし入れてしばしを居りぬ

夕飯の仕度のために触れた新米か、おもいのほか冷たく、手をさし入れて涼むでもなく呆としている。自分以外の誰が見ているわけでもない一場面を、没入することなく乾いた調子でうたう。そんなうたが、この歌集にもやはりあっておもしろい。しかし、ある種の衰えのような質感が滲んでいて、一読わらったあとは、なんとも悲しい気分になることもしばしばあった。

夢のうたがおりおりにある。

それは私が夜中に見てゐたドラマだと娘が言ひぬ夢を語れば
白い影が近づきてわが身体を通過したりアッと叫んで目覚む

夢のなかみを具体的にうたって印象的なものもあるが、それよりもこういう夢と現実のあわいを踏みはずすようなうたにひかれる。手でつかんで引き寄せられるような読後感がある。これも先述の衰えとかかわりがあるのかもしれない。

四句切れで、挿し添えるような結句をもつうたが目に留まる。

街川の匂ひとともに花びらの流れてきたり四階の部屋に
甲羅干ししてゐる亀のうしろ肢のび切つてをり少し宙に浮き

ともに字余りの二首を引いた。結句でもうひとつ仔細に述べるのだが、息切れのようなこころぼそい体感がのこる。描写としては重ね刷りのようにイメージを更新しつつ、一方で、眼差しの経過や、ひといきにはいかない把握、その主体を並べてうたに出すようなところがあるのだ。

街川のほとりに積まれゐる土嚢より細き草垂るここに育ちて

娘に子が生まれ、祖母になった。孫と祖母、というよりも、赤ちゃんとおばあちゃん、という言い方が合っているのかもしれない。

呼ばれたと思へば娘はみどりごにおかあさんはねと言つてをりたり
食料を買ひに出られぬ雪の日の娘と赤ちやんを思ふしばらく

あたりまえだが、親子ではない距離感があるなあとおもう。たとえば小島ゆかりさんのうたを読んでいると親-子のような祖父母-孫の関係もあるのだろうなあ、とおもって新鮮な気持ちになるのだが、そうではない、やはりおばあちゃんと赤ちゃんというべき関係がここには映る。娘を挟んで孫を見る。娘を見るから孫が視界に入る。この感触は、古いようでいて、じっさい、あまり読んだことがない。

咳すれば膝に居る子も咳をする咳なのか真似なのか判然とせず
這ひ這ひをしてゐた子どもがいつのまに外を歩いて手をつなぎくる
でんぐり返し出来ない老いは幼子にでんぐり返しさせてよろこぶ

孫のうた、孫のうた、というが、「みどりご」「赤ちやん」であり、「子」「子ども」「幼子」である。孫とはうたわれない。関係性がさしはさまれない。そういう眼差しのあり方だし、多く連作のうたとも言うべき一冊の、一連の構成によるところも大きいとおもう。

かつて鉈をすぱっと振り降ろすようにして娘を息子をうたった切れ味は健在で、途中からやっぱり楽しくなってくる。さっぱりとしたうたい口は、どこをとってもある。

管理組合広報の隅に書いてあり絶滅するまで猫を処分すと
パーセンテージで消費電力いふことのこの夏あらず足りてゐるらし
豪華列車ななつ星号に小旗ふり見送る人らに何のよろこび
刑務所の面会のごとしパソコンの画面の息子と言葉を交はす

季節のうたが、ごく自然に並ぶ。ひとつひとつの連作のまとまりとともに、歌集全体にゆるやかな流れを与えているようだ。

ベランダのまへの冬木を移り飛ぶひよどりの声するどき夕べ
フランスパンつよく嚙みをり暑にこもる日の唯一の運動として
初春の日のさす床に独楽まはるたび幼子もふらふらまはる

ときおり、なめらかな韻律とともに恍惚とするいっしゅんがある。

なにがなしさびしくしだいに切にさびし北杜夫この世になしとおもへば
冬の日のすいみんじかんは幼子と重なつてゆく娘もわれも

歌集全体の6割ちょっと、172ページまでの感想。



※うたの引用はすべて歌集『鳥影』(角川文化振興財団、2019年)に依ります。
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長崎から長崎まで——大口玲子『ザベリオ』(2019年)

長崎からはじまって長崎でおわる歌集である。

いまだ見ぬハウステンボスいまだ子を原爆資料館に伴はず
     八月九日 長崎原爆資料館
われと違ふガイドに付きてやや先の展示に見入る子の背中見ゆ

印象的な二首を抜き出した。一首目は16ページにある。子を連れて長崎にやってきたけれど、「まだ」原爆資料館には連れていかない(いけない)年齢、という判断だろう。それが二首目、これは156ページの一首だが、一緒にどころか別々に行動しながら原爆資料館をめぐるようになる。この時間の幅に、『ザベリオ』という一冊がある。

     *

人間や社会への重く分厚い眼差しが一首を貫きながら、そこにいつも、息子の存在がある。

「お父さんは元気か」とまた聞かれ子は「はい元気です」と素直に答ふ
つつじ摘み蜜を吸ひたるのちの花を子はためらはず土へ落としぬ

歌集のはじめのほうの二首。一首目、父のもとを離れて母子だけで九州へ来た。そういう事情を知った大人たちが口々にたずねるのだろう。しかし子のほうは、社交としてではなく、ごく「素直に」答えるのである。どこか安堵がある。この「素直に」もそうだが、二首目の「ためらはず」がいかにもその年齢をあらわしていよう。母としては、「いろいろわからないうちでよかった」という気持ちがあるのかもしれない。しかし一方で、

寒の水飲んで炬燵でオセロして完膚なきまで子を負かしたり

と真っ向勝負の母である。手加減をしない。一対一で向かい合う。「寒の水飲んで」というところに迫力、気迫がある。この歌集の本流はやはり人間や社会といった大きなものへの眼差しなのだとおもうが、その濁流のようなもののなかに、いっぽん通る筋があるとすれば、この「息子」への視線だろうとおもう。それはときに苦しいほどである。

忍者には音も匂ひもないといふ 息子は汗のにほひしてゐる
見に来てはだめと言はれて見に行かずプールで泳ぐ息子を思ふ
「ビールの人」と言はれ四人が手を上げてわれの息子も手を上げてをり
宿題に集中できぬ子が不意に「猫とふれあひたい」と言ひたり
子は読書感想画を描き戦争孤児の涙をみどり色に塗りたり
子の肩をいだきよせむとしたるとき「やめて人前で」と言はれたり

「汗のにほひ」に他者性がにじむ。それをかぎとめて、悲しくもあるか。「見に来てはだめ」「やめて人前で」にこもる自意識。いつまでも、というか、もとよりわたしでもなければ、わたしのものではない「息子」という存在。反面、「ビールの人」という呼びかけに手を上げる、「猫とふれあひたい」と言う屈託のなさがある。また、「やめて人前で」や「ふれあひたい」にはどこか引用の感があり、一首のなかには、それを単純におもしろがる一面もある。子の描く「みどり色」の涙のまえに立ち止まる。子のひとつひとつの言動にゆさぶられる母のすがたがある。そしてだからこそ、子をつつむ、もっと大きなものへの眼差しはいっそう厳しいものになっていく。

     *

     八月八日
バスで行く長崎平和学習の往路息子が配るキャンディー
寝る前の祈り短くとなへたるのちを息子は男子の部屋へ

さいごの長崎の場面である。「成長」や「自立」という安易なことばをのみこんで、ふりはらって、こういう眼差しが残る。命のはじめの小さな小さな誕生のときからすでに、別れがはじまっている息子と母の、小さな小さな決別のくりかえしが、一冊のなかに切なく刻み込まれている。


※歌の引用はすべて歌集『ザベリオ』(青磁社、2019年)に依ります。

視線の束——近藤寿美子『桜蘂』(2019年)

眼が覗くための穴ありいくつもの穴が見てをり面を売る店
満身に月の視線を浴ぶるときかすかに汝(なれ)は瞼をひらけ

眼、覗く、視線、瞼など、「眼」や「見ること」にまつわるうたを二首引いた。一首目はお祭りかなにかの場面。いわゆるお面を売る店を見ている。ずらっと並んだお面のどれを見ても二つの穴があいている。それが「覗くため」であるのはいわずもがな、しかしそれが、あえて強調されて述べられる。「見る」ことをつよく意識したうただ。穴はあるけれど、お面であるから、そこに「見る人」は存在しない。無数の穴だけがわれのほうに向いている。奇妙な体感がおそう。二首目、月のひかりが「視線」のように汝をさす。あまたふりそそぐ視線に、反応せずにはいられない。耐えきれず瞼がひらくようである。あるいはそれを願うこころ。ちなみにこの「汝」は、前後のうたからお腹のなかの子とおもわれる。満身を透過するような月の視線をおもう。

たまたまだが、どちらも無数の視線がひとつ束になって降りかかる。対してわたしは、たったひとつの視線しかおくりえない。

     *

その、たったひとつの視線が、束のようにつよいのがひとつの特徴である。

雪のなきわが街へ雪ふりこぼし貨物列車が過ぎてゆきたり
あかつきの雨を吸ひたる泥を踏むはつか沈みてみづは浮き出づ

一首目、貨物列車が過ぎてゆくのを見つつ、そこにふりこぼれる雪を見ている。さらにその奥には、「雪のなきわが街」をかえりみる。かえりみつつ、ふりこぼれる雪、そして雪をふりこぼしつつ過ぎる列車をじっと見ている。二首目、地面の「泥」だが、「あかつきの雨を吸」ってゆるくなっている。それゆえ踏み込んだときに「はつか」沈み、おされて「みづが浮き出」る。こまかなこまかな一場面である。

眠りより覚めざる獅子の背のやうな春まだあさき滝の水公園
子と夫とわれのバランス保ちつつ秋空にふれてゆく観覧車

比喩のうた二首。一首目、「眠れる獅子」を「眠りより覚めざる獅子」とひきのばし、「眠っている」ということよりも「覚めざる」ことが強調される。春であるから冬眠からいきものが目覚める、ということへの意識もあるかもしれない。おだやかな春の空間がある。その予定調和をやぶるような「滝の水公園」であり、字余りである。微細な感触をとらえている。二首目、高いところに手をのべて身体の不安定な、感覚をおもいだす。ものをとったり、電球をとりつけたり。「秋空にふれてゆく」というのは、そういう届かぬものへ、あと少しで届きそうなものへ触れようとするときの、心身の不安定をふくんでいる。いや、それにしても「観覧車」のひとつゴンドラが頂点へいたって、なにか空(くう)をつかむような感触をのこしつつ下降していくさまは、まこと「秋空にふれてゆく」という感じがする。その動きに照らせば、「子と夫とわれのバランス」というのは物理的・空間的なものであろうが、同時に、人と人との関係におけるバランスのこともおもわざるをえない。いずれの比喩にも、ひとつ空間に流れるもの、ただようもの、その空間がどういうバランスのうえに成り立っているか、ということを鋭くとらえる眼差しがある。それは必ずしも「目」だけの仕事ではないが、全身が「目」となって場をとらえているように感じる。だから束なのだ。

     *

あとすこし、うたを引く。

どの船にも名がつけられてゐることのかなしも岸に待つといふこと

船にはりつく「名」のかなしさは、すなわち「岸に待つ」ことのかなしさと言う。名づけなしには名はうまれない。名という鎖のかなしみをおもう。

指ほそく黒きマニキュアが詰めくれしコンビニのパンひとくち齧る
トンネルの暗闇が不意に映しだす母より生れて父に似し貌
選ばれて降るにはあらず海岸の砂に積もる雪海に消ゆる雪
吹き消してらふそく抜かれゆくときのホールケーキに孔(あな)しづかなり
皿の上(へ)に添へられし薔薇のはなとしてサーモンの身は巻かれてをりぬ

見えてしまったところを手がかり足がかかりにしてもうひとつ踏み込む。その視線のつよさ、奥深さ、全身性が、束になって一首をかたちづくっている。


※歌の引用はすべて歌集『桜蘂』(短歌研究社、2019年)に依ります。

季節はずっとめぐるけれども——大野英子『甘藍の扉』(2019年)

三品を作るつもりで準備して二品で終る一人の夕餉

「一人の夕餉」なればこそだろう。はじめは「三品」くらい作ろうとおもって準備していたが、結局は「二品」で終ってしまった。はじめから「二品」とおもって「二品」作ったのではこの感じはでない。仕事おわりで疲れていたのか、時間がおしかったのか。はっきりとこれ、という理由があって「二品」と決めたわけではなく、なんとなく「三品」が「二品」になってしまったのだ。暮らしのなかの一首である。

咲くまへに桜並木がほの霞む顫(ふる)へるやうな切なさに似て
デパ地下に働くわれの休日は陽に会ひ風に会ひに外出(そとで)
父と二人で柵を作りし朝顔に今朝むらさきの花ひらきをり

いわゆる「デパ地下」に働く日々がうたわれるⅠ章から引いた。いちにち建物のなか、それも外の景色の見えない地下で、「陽」にも「風」にも会えない日々を過ごす。通勤、退勤の時間帯はまだしも、日中、季節のうつろいも感じられなければ、雨なのか晴れなのかもわからない。だから休日は「外出す」る。一首目は、そんな日々にあって「咲くまへ」の「桜並木」を感じている。「顫へるやうな切なさ」をみとめているところが独特だ。三首目は「朝顔」。「父と二人で柵を作」った思い入れのある「朝顔」である。その「むらさきの花」が今朝ひらいた。ともしびのような一首である。この「父」とのなにげないうたが、Ⅱ章を読み進めるうちに切ない思い出にかわっていく。

     *

秋の夜長を楽しみに買ふ椅子ふたつ星見る椅子と読書する椅子
歩けなくなりゆく母はくづれかけの粘土細工のやうに座れり
けふ少し精神錯乱の父にしてきれぎれに言ふことば正論

いずれもⅡ章から引いた。一首目、ここでも季節への視線がある。秋になったらベランダに出て星を見ようか。部屋のなかで本を読もうか。季節の変化を「楽しみに」している。明るいうたである。対照的に、二首目の「歩けなくなりゆく母」、三首目の「けふ少し精神錯乱の父」に不安になる。「粘土細工」や「ことば正論」のきっぱりとして冷静なまなざしが、きびしい現実を伝えてくるからだ。

このⅡ章は、「父」「母」の介護の日々、そしてその最期を見送る日々を克明に刻んだ一群である。

われはまだ泣いてないのに見舞ふ人みな父を見て涙を流す
満開に桜咲くあさちちのみの父のたましひは父を去りたり
なぜこんなに冷たいのだらう手触りのやはらかきままの父の耳朶
密度濃き季節は終るいちにちも洩らさず父に付き添ひし冬
燃え残る頭蓋にずらり歯は残り食べたかりけんステーキ、カツなど
切れぎれの父のこゑして目が覚めぬ雨降る音か朝まだ暗き

泣きたいけれど泣いている場合ではない立場と感情。「見舞ふ」であるからまだ亡くなっているわけではない。それなのにみな「涙を流す」。なんだかもう終わりみたいで悲しくなる。けれどもわれまでもが泣いてしまえば、父は、本当に死んでしまう。二首目、満開の桜にまじるように、「父」をはなれゆく「父のたましひ」。韻律なめらかな一首のなかで、感情はむしろうすく、そのことがかえって胸をうつ。「耳朶」「頭蓋」「歯」におもうこと、おもいだすこと。おもいかえす冬の時間。父のいた季節。その濃密だった日々が、父の存在が、いまだにわれを離れない。

父のこと思ひ出すたび泣き出して泣き止みてもう忘れゆく母
遺影の父の視線の先の庭の梅ありえぬほどに大きく育つ
さあ、と声出してもひとり梅雨入りの朝曇(あさぐもり)せる実家の庭に
ひとりよりさらに寂しもわれのことなじるばかりの母とゐるとき
いく筋も飛行機雲が伸びゆきて青空にいまバッテンがつく
父はゐず母は戻れぬ食卓に灯りを落しひとりもの食む

ゆるやかに季節はうつり、「父はゐず母は戻れぬ」実家の庭にも梅の実が太るようになった。感傷にひたる間もなくやるべきことが日々にあり、また、しだいにおとろえていく母がいる。はじめに引いた「一人の夕餉」とはおおきく状況のちがう「ひとりもの食む」である。「ひとり」の厳しさ、それよりも寂しい「母」との時間。「泣く」ことも「忘れる」ことも「なじる」ことも、もう自分ではどうにもできない母なのだ。そのことがわかっているから、よけいにこたえる。五首目、さしはさまれた「いま」が示唆的にひびく。

ゆれながら冬日に乾く干し物のやうにゆつくり母よ癒えゆけ
血清が腕より入りて血尿となりて出でゆく母のからだは
昼の星よりも幽かな母の意識ここにゐるのにわれに気付かず
電線に光る水滴風ふけばもうあきまへんと落ちてゆきたり

こんなにつぶさに書かれていていいのかとおもうほど、ひとつひとつ、丁寧につづられている。その比喩が正確であればあるほど、また、眼差しが冷静であればあるほど、胸がいたむのだ。一首目、冬のよわい日差しにそれでもゆっくり時間をかけて乾いていく服を見ている。ゆっくりでいい、少しずつでいいから癒えてほしいと願う。二首目、「血清」が「血尿」にかわるという〈発見〉が、そのまま提示される。この〈発見〉のほぐされなさに迫られる。三首目、「昼の星」はあるけれども見えないもの。そのように「母の意識」がある。母にとっては「われ」の存在こそが「昼の星」になってしまった。ここに「われ」はいるのに、母には気づかれない。四首目、事切れるような「落ちてゆきたり」である。「もうあきまへん」の息づかいが切ない。

あけがたの楽しみ一つ湿りある土ごと根ごとどくだみを抜く
世話すればするほど庭は生き返りちちははは生き返ることなし
夕焼けのうすれゆく道ほそき道また来てしまふちちははの墓

「ちちはは」がいなくなっても、家の庭はのこる。のこれば誰かが世話をしなくてはならない。世話をすれば、いやおうなくおもいだされるのが「ちちはは」との日々である。「土ごと根ごと」「うすれゆく道ほそく道」のリフレインがやさしい鼻歌のようにひびく。「楽しみ一つ」にすくわれるように読んだ。

     *

『甘藍(かんらん)の扉(と)』という題は、次の一首に由来する。

やはらかき甘藍(かんらん)(と)をひらいてもひらいてもひらいても父ゐず

甘藍とはキャベツのことである。キャベツの葉を剝いでも剝いでも、庭草を抜いても抜いても、そして季節は今年も来年もめぐりめぐるけれども、もう、そこには父も、母もいない。「コスモス」所属の著者による第一歌集である。


※歌の引用はすべて歌集『甘藍の扉』(柊書房、2019年)に依ります。

島本ちひろ『あめつち分の一』(2019年)

「コスモス」所属の著者による第一歌集。一首一首、ことばを緊密につめていくうたの作りが印象にのこった。

月光がベランダに降(ふ)り「憶い出をのせる木馬があります」と言う
冬だねと言い合うためのこたつですぶつかる足も嬉しいんです
さざなみのひとつひとつに過去があり観音崎の風 縹(はなだ)

Ⅰ章より引いた。多く「恋」のうたが並ぶ。

一首目、ベランダに月のひかりがさしている。それを「降る」と言う。そしてその月光が「『憶い出をのせる木馬があります』と言う」とうたう。月光が主語であることを示唆する「降る」なのだ。「思い出」ではなく「憶い出」であるところにも、措辞へのある視線を感じる。二首目はわりと自然なうたい口だが、下の句のリフレインによってイメージが更新されている。三首目、「さざなみのひとつひとつ」がかかえもつ「過去」に着目する。その眼力が、風に「縹色」をも見るのだろう。海に向かって立ちながら風をあびるひとりの姿が浮かんでくる。「緊密」が、だから散漫にならない。

     *

目次をひらいてみると、どのタイトルも四文字で統一されていておどろく。だからどう、と言うことでもないのだが、こういうところにも「緊密」ということがあらわれていよう。あるいは章ごとのテーマも、Ⅰ章が「恋」のうたであれば、Ⅱ章は「子」のうた、というふうに、おおよそ統一されている。ところがⅢ章、すこしうたの雰囲気がかわる。歌数のおおい連作のなかで、うたがのびやかになっていく。あるゆとりがうまれているように感じた。

一息に氷を放ち空っぽになった製氷皿を見ており

製氷皿にできあがった氷を取り出すと、空っぽになった窪みが並んで見える。それをじっと見つめている。たしかに製氷皿の背を押すとひと呼吸に氷が取り出せる。「一息に氷を放ち」とはひとつにはそういう描写だが、ここには先述の「緊密」の残り香が感じられる。しかし「空っぽに」以降はごく自然にことばが置かれているふうで、「緊密」とはちがったところでうたが成立している。

柿の実をぽとりぽとりと手放して柿の木はまた独りになりぬ
積載は750キロまでのこのエレーベーターに象は乗れない

一首目、柿の木が柿の実を「手放」す。これは月光を主語に据えた視線と同じだが、柿の木、柿の実のくりかえし、「ぽとりぽとり」というオノマトペ、それから「また独りになりぬ」というクロージング。一首の幅をひろげるような、ことばの運び方がある。二首目はまたちょっと種類のちがううただが、「緊密」とはほど遠い一首である。「エレベーター」に「象」を乗せられるか、乗せられないか、という比較の視点をもちだしたことによって、読者はその土俵において、ものを考えることになる。

猫だった頃に出会いたかったなあ息子の髪を洗う霜月

歌集もおわりに近いところに置かれた一首。これも初句から引きずり込まれて読まされる。「猫だった」かどうかを考える余地なく、かつて「猫だった」という前提で、読者はうたに接するのだ。まだ小さい「息子の髪」を洗っていれば、大人や母としてではなく、猫として、ほとんど対等に、あるいは友だちのようなこころとからだで接していたいなあ、という感慨がわくのだろう。

     *

月光が「降る」ことも何か「言う」ことも、さざなみのひとつひとつの「過去」も、風の「色」も、柿の木が「手放」すことも、「独り」になることも、猫だった頃の「わたし」も、全部、空想といってしまえば、それだけのことかもしれない。しかしそこには、「おもいみよう」とする眼差しがあり、またそれをさそうような光景や体験や感触があり、そしてそうおもってみることによってあらわれる、新しい別の世界がある。ここには、ことばを「緊密」に組み上げることによって作られた手元の小さな世界ではない、もっと大きななにかへひらけていく予感が満ちている。

現実と空想の隙間をぬけると、そこにまだみぬ別の世界があるような、そんな感触をもちながら読んだ歌集だった。


※歌の引用はすべて歌集『あめつち分の一』(六花書林、2019年)に依ります。

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎『温泉』ご購入はこちらから。現代短歌社のオンラインショップです。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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