古賀大介『三日月が小舟』〈前〉(2018年)

夕暮れの川辺を思わせる写真の表紙をめくっていくと、次の2首から歌集は始まる。

五月雨の夜の窓辺に立ちている私は何のつづきだろうか
紫陽花が庭にやさしく咲く頃に痛みのように思い出す雨

夕暮れのつづきの夜、のように作品世界に入っていく。呆然と、と言うよりは体をきちんと立てて、なにか遠くを見ようとする眼差しがある。思索がめぐる。「あの頃」と「今」の接続を思い、あるいは「あちら」と「こちら」の交流を思う。そんな歌集全体の気配を予感させるような2首である。

薄雲のそら楽しいか悲しいか苦しくないか肉まんを食みつつ

この「そら」は「空」でもあろうが、一方で掛け声のようにも読んだ。「ほらごらん」「そらヒグラシだよ」という時の「ほら」「そら」のような感じだ。薄雲の、で一呼吸おいて、そこから〈わたし〉と薄雲と往還し混じりあうように「楽しいか」「悲しいか」「苦しくないか」と交わされる。それは〈わたし〉からの声であるわけだが、声となって発せられた途端に〈わたし〉への声にもなる。〈わたし〉は肉まんを食んでいる。肉まんの皮のうすい白と薄雲とがすれすれのところで交わっている。

ゆく道の街灯も冬、冬だろうカレーの匂いどこからか浮く

街灯も冬、と言い切ってのち、冬だろう、と言い直す。リフレインというのはひとつ歌の流れを決めるレトリックではあるけれど、もうひとつ、認識を問いなおす、景色を更新する、もう一段階踏み込んで描きなおす、そういう方法でもあろう。冬だろう、と言い直した思考が「浮く」という動詞をおびきよせているようでもある。カレーの匂いがただよっている。そうか匂いは浮くのか、と思った。

     *

牛乳の白に予感を覚えつつ確かにそれは牛乳である
その風に乗ってしまえと誰か言う春はわらってもっとわらって

慎重である。牛乳であることを予感し、同時に、それを牛乳と認める。いや、牛乳の白に「牛乳ではない何かべつの、あの白」を予感しているのかもしれない。しかしそれは牛乳である。いずれにしても、それが確かに牛乳であることからくるささやかな安堵がある。そうだと思えること、確かにそうであるとうたがわずに済んでいられることへの安心だ。〈わたし〉はたくさんの声をきく。声がきこえて、それに応えて、世界を歩き、世界にとけこみ、その分、確かな「今」や「ここ」はほんのわずかである。「確かにそれは牛乳である」ということへのうれしさがにじんで映る。「もっとわらって」と掴みなおす。

風船の頃の記憶の切れはしが飛んでいくのが見える がんばれ

あの頃の記憶、と今を取り結ぶような歌がいくつもある。そのなかの1首だ。「風船の頃の記憶」というのはどうだろう。〈わたし〉が風船であった頃の記憶か、〈わたし〉が風船で遊んでいた頃の記憶か。ここでは前者をとる。むろん、風船であった頃のつづきに〈わたし〉がいるわけではない。風船の頃の〈わたし〉はそれとして、今はまた別の〈わたし〉を生きている。であるから、その切れはしをここから見ることができる。がんばれ、とつぶやかれたそれは、風船の頃の〈わたし〉へのエールなのだが、それはまぎれもなく今の〈わたし〉へのエールとなってふりそそぐ。

夕ぐれの向こうに君をんっ、んっ、とみている夏のアセロラソーダ

みているのは誰か、何か、としつこいようだが考えてみる。1つには〈わたし〉が君をみていて、そんな夏の、アセロラソーダという読みがある。もう1つ、夏のアセロラソーダが君をみている、という読みもある。これはどちらとも断定しがたい。ともかくいま眼前に君がいるのではない。アセロラソーダは〈わたし〉の目の前にある。であるから、その距離を思えば、「みている」の主語がどちらであっても視線の長さはほぼ等しいと思える。「んっ、んっ、」というのは〈わたし〉の心であろうか、眼であろうか、あるいはアセロラソーダの炭酸の泡であろうか。〈わたし〉はアセロラソーダだろうか。

     *

めのなかにまどのひかりがゆれていたちいさなうたがぽつぽつできた
そして夏 入道雲であることを忘れて昼の床にふくらむ
駅前の行くほど行けぬ路の上で「ジャンプ」を拾う 月がみている

歌集は全部で4つの章からなる。その前から2つ、ⅠとⅡの歌を読んだところでこの稿を閉じることとする。

1首目、なにか新たな展開を予感させるような歌だ。なにかが終わっても、そこから安寧がつづくわけではない。その隙に、また新たな何かが入り込んでくる。その、次の話までのほんのわずかの時間。ちいさな声が印象的だ。2首目、気の抜けたような夏の一場面である。昼の床にふくらむ、というのにふしぎな生命感があって、「そして夏」という初句の威勢とのズレもおもしろい。3首目、だんだんと体を起こしている。後ろめたさではない。「月がみている」というのはむしろ安堵だろう。世界と再びまじりあう心を取り戻しつつある、そんな姿だと思った。



*歌の引用はすべて歌集『三日月が小舟』(六花書林、2018年)に依ります。
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久田恒子『母子草』(2017年)

4つの章からなる第3歌集である。といっても、最後の章「さくら月」は岩間郁子氏の章であるから、実際には3つの章からなると言うべきかもしれない。親子歌集というあまり見ることのない体裁をとっている。ここではその3つの章の歌を読んでいく。

まずは「木の葉しぐれ」というはじめに置かれた章より。

絆とはつね温かく後ろよりわが眼をふさぐ小さきてのひら

絆とはつね温かく……と、これは一般論かと思えばそうではない。だんだんとその姿があらわになってくる。単純ではない。そしてこの「絆」という語の使い方も、こう歌われてみると、いわゆる「絆」とは少しちがう感じが見えてくる。章のおわりのほうにこんな歌がある。

好き嫌ひ多き子のため祖母といふ絆が人参クッキーを焼く

先の「小さき手のひら」は孫の手のひらであったのだ。「祖母といふ絆」と言うとき、絆ということばにこもる温度は冷たくも熱くもない。親子ではなく、祖母と孫の距離感だなあと思う。でも、私にとっては見たことのない「絆」であった。

     *

読み始めて、すぐにおだやかな気持ちになる。一首に乗る思いはささやかだ。こちらが入っていく余裕がある。この一首のたたずまいは不思議だなあ、と思う。

涙いっぱい溜めてゐる子の言ひ分を腰をかがめて聞いてやりたり
降りますと席ゆづりくれし青年が長く吊り革にぎりつつ立つ

ゆったりとした動作が浮かんでくる。静かだ。子の言い分も、その顛末も、青年の気持ちもわからない。そして〈私〉の思いも。けれども、じんわりと伝わってくる。「聞いてやった」そのことがまず大切なのだ。そこに「腰をかがめて」と動作が入る。一首の構成は緻密だ。青年と〈私〉の奇妙な時間が流れる。バスの中には二人だけがいるような、その場面だけをじっくりと思わせるような描写の方法である。

美しく老いるといふは絵そらごと施設の友が匙へ口開く
ふんわりと月のひかりに包まれて影とふたりの路地もどり来る
ひと笛が組体操をくづしたり五月の風の光る校庭
蝶々とはしゃぎてゐたる背の孫がねむりはじめて重くなりたり

「絵そらごと」と言う視線は厳しい。「匙へ口開く」という直截な述べ方がそれをあらわしている。自らの影と自分との「ふたり」で歩く、という視線のほうへは注目させないようになっている。当然のごとく、「ふたり」で歩く。さしはさまれた「路地」に気をとられているうちに。ピーッと笛がなって、それに合わせてばさーっと組体操がほどかれる。この一瞬を「ひと笛が」「くづしたり」という。その一瞬の「動」と、そののちにおとずれる「静」が鮮やかに対照的だ。「重くなりたり」とさりげなく言う。自らはすーっと後ろのほうへ引きながら、細部を描き込むことで〈私〉の存在を感じさせない。

一杯ぐらゐ飲めよと注ぎてくれし夫お陰でいまも少し飲めます
赤とんぼわたしの指に寄っといでこんな日の暮れどきはなほさら
花に疲れ人に疲れしバス停になほも追ひくるさくらいくひら
群れ咲ける花大根にむらさきの雨の降りつつ風もむらさき

「お陰でいまも少し飲めます」にぐっとくる。こんな思い方があるんだなあ、と思う。そしてこんな歌い方があるんだなあ、とも思う。「こんな日の暮れどきはなほさら」は語気の強い下の句である。句またがりが性急に結語を求めている。あるいは「花に疲れ人に疲れ」のたたみかけ。それでもまだ追ってくる桜の花びら。すこしこわいくらいだ。「風もむらさき」によって世界はもういちど塗り替えられる。

     *

次なる章「蟬の終焉」より。

孫の婚聞きたる今日は何もかも輝きて見ゆましてや四月
いわし雲仰げば旅がしたくなる人の訪はざる寺へ古墳へ
かすかにも砂を起こして湧きいづる清水が山のみどりを映す
ひとりでは漕げぬシーソーに腰かけてままならぬ世の空を見あぐる

「ましてや四月」と一歩も引かない。ここにきて「人の訪はざる」という心境は複雑なものだろう。集中、ひとりの時間を余すような歌もいくらかある。「旅」なればこそ、「人の訪はざる」なのだ。いわし雲と心を並べるような風情がある。「かすかにも砂を起こして」のクローズアップから「山のみどり」まで大きく引いていく。さながら〈芋の露連山影を正しうす〉(飯田蛇笏)といった感じか。「ひとりでは漕げぬシーソー」というのは把握であるが、そこから「ままならぬ」を引き出している。これもひつとのズームアップと言えよう。

三つ目の章「歳月茫々」より。

抜けるやうな青空どこまでのぼれるか可能にしたき不可能もある
ふるさとの姉のもみたる干し柿の夕日のいろが今年もとどく
となり家の犬にソーセージ与へつつ手なづけといふ狡きことする
離れゆくもの多きこの世に律儀にも従かず離れずひとつわが影

決してそんなことはないのだが、どこか若書きとも思われる「可能にしたき不可能もある」という下の句におどろく。「干し柿の」の「の」でひと呼吸おいて、そこから「夕日のいろが」とあらためてその存在感が示されたのち、「今年もとどく」と、読者の前に差し出される。「狡きことする」の自らへの視線は「絆」を言うときの視線であり、また「絵そらごと」を言うときの視線でもある。この世を去ってゆくもの、だけではないだろう。出会ったものはいずれ「離れゆく」。そんな中にあって、つくともはなれるともせず、ただそばにある「影」の存在が、特異なものとして描かれている。「律儀にも」にはそれを不思議に思う気持ちも含まれよう。

静かなようで感情の機微は微かに震え、それが韻律ゆたかに描かれる。〈私〉のまわりを描くその視線の束からさりげなく〈私〉が立ち上がる、そんな歌集である。



*歌の引用はすべて歌集『母子草』(芸文堂、2017年)に依ります。
*拗音の表記など、旧かなの表し方についても歌集の表記のまま引用しています。

喜多昭夫『いとしい一日』(2017年)

 8つの章からなる、著者8冊目の歌集である。

   新歓コンパ
ハイボール、とんッと置きたる傍えには羽根つき餃子の羽根のしずけさ

 「金沢大学文藝部外伝」の章より。宴会の一場面だ。厚いジョッキに入った「ハイボール」だろうか、「とんッ」という音がまことふさわしい。(どんッ、ではない。)「ハイボール」という飲みものの軽さもあくまで「とんッ」である。そのちょっとポップで元気な感じと「羽根のしずけさ」が対置される。輪のなかにあってわたしは少し俯瞰の視点で見ているわけだ。意識のクリアな感じが場の雰囲気とずれるようにあって印象的だった。

   シルバーの表紙がやけにハマってた。
染まらない白ってこんなか『さようなら、ギャングたち』読む君の横顔
   NOKKOに乾杯!
レベッカがフレンズ歌う いいぞいいぞ しびれるような月夜の晩だ
城あとの草に寝転び岸上の無援のうたをくちずさみたり

 「さようなら、ギャングたち」(高橋源一郎)、「レベッカ」(のボーカル「NOKKO」)の「フレンズ」、「岸上」大作の「無援のうた」——〈血と雨にワイシャツ濡れている無援ひとりへの愛うつくしくする〉だろう——など、時代を象徴するアイテムに、むろん当時の空気感は知らないのだけれど、リアリティを感じてしまう。そのアイテムをうたうこと、うたのことばとして選ぶこと、アイテムを象徴におしとどめずにそこへ何かを言えることにリアリティを感じるのだろう。なにか時代のなかで青年だった一人のひとの声が聞こえてきてやまない。
 一首目、表紙の詞書から「染まらない白」を想定するのだが、結句は「君の横顔」で結ばれる。一首を通過することでわたしは君へたどりつく。二首目、さしはさまれた「いいぞいいぞ」に声を重ねたい。三首目、石川啄木の「不来方の」が下敷きに普遍的なものとしてあって、そこにわたしは「岸上」を持ってくる。

   声変わりする前の僕がカセットテープの中にいた。
タイムカプセルを開けたら僕あてにいきなり「生きてるかな?」って訊くな

     *

 あんまり歌を挙げるともったいないような気がしたけれど、それは1つ1つの章に標的となるような誰かが居て、そこに向かってまっすぐに思いが向けられるかもしれない。先の「金沢大学文藝部外伝」であれば、あのころのわたしへ向けて歌われる。次の章「千里浜なう」の標的は「君」だ。

   ユウコ(ありふれた名だ)
砂浜に君の名前を書きたればキモイからやめろやと言われき
   好きなんだ、好きなんだよお(と夕日に向かって叫ぶ)
帆のような横顔だった ひと呼吸置くようにして「ごめん」と言った

 一首目、「キモイからやめろや」の「や」は「ほんとうにそうだった」のだろうし、それを「書きたれば」と「言われき」で挟み込む形をとっている。強烈な直接体験の過去だなあ、と思う。全体に物語や芝居のにおいが強いのだけれど、それでも、と立ち止まってしまう。二首目もそうだ。こっちまで苦しくなる。

 次の章へいく。「リュウへの手紙」、標的は岡井隆だ(と、ひとたびは思ったが)。

歌は龍 どこまでも昇れ すめらぎの岡井隆歌碑除幕式典

 左端に章題の書かれた扉の中央に据えられた一首である。岡井の「ヘイ龍」の一首が念頭にあるのだろうし、そもそもこの「龍」は「隆(=りゅう)」である。ところで下の句の「岡井隆歌碑除幕式典」は字面もそうだが、「すめらぎの」という枕詞からの接続というのもあって荘厳な感じがありながら、しかし、音読してきもちがいい。「歌は龍」「どこまでも昇れ」の息の短さに対して、「すめらぎの」で大きく息を吸って吐き出された長いことば、のようにうつるからだろうか。
 この章、岡井隆にどっぷりいくかと思えば、そういうわけでもない。岡井隆をとっかかりにして、もうちょっと広く、いろいろの事象が歌われている。さらに次の章、「鳥居ならここにゐます。」の鳥居はもちろん、ちょうど「現代短歌」の二人五十首で岡井とタッグを組んだ「鳥居」である。「岡井」論や「鳥居」論ではないが、かたわらに「岡井」があり、「鳥居」があり、という温度ですすんでいく。

     *

 あと三首だけ、歌を読んで終わりにする。

波寄せて前ゆく波を越えざりき襟立てゆかん冬の渚を
ねじをゆるめればくるくるたちあがりたちあがりくるねじというもの
はつものの梨の歯ざわり 湧き水のようにはじまる秋の一日は

 一首目、以前「やまなみ」に書いたものを少し引用する。ある種のポーズなのだが、気分がよく出ていると思う。

波は次から次に岸に寄せるけれど、そのどの波も前をいく波を追い越せない、という上の句の把握には説得力があるし、なにか先蹤につづこうと自らを鼓舞するような力強さが一首を貫いている。(中略)黒瀬はいつだったか角川「短歌」の巻頭エッセイでもこの歌(注:春日井建の「今に今を重ぬるほかの生を知らず今わが視野の潮(うしほ)しろがね」『友の書』)を引いていたが、喜多も同じ春日井門下の一人である。今という一瞬に次の一瞬を重ねるほかない、という感慨はそのまま先の「波寄せて前ゆく波を越えざりき」につながっているようだ。(「やまなみ」2017年1月号より)


 二首目は永井陽子の「アンダルシアのひまわり」を思い出した。上の句では具体であったことが、語順を変えながら下の句では抽象になっていく。ぐるぐると思考のらせんを見るようでもある。
 三首目、はつものの梨であるから、それこそ水の湧くようなシャキっとした食感、歯触りが印象的であったのだろう。その印象が、そのまま下の句へつながっていく。「はつものの梨の歯ざわり」とア段の頭韻ですべりだした歌がいったんは転じるものの、ふたたび「はつもの」「歯ざわり」の「は」を引き受けて「はじまる秋の一日」と収まっていく。



※『いとしい一日』の歌の引用はすべて歌集『いとしい一日』(2017年、私家版)に依ります。

齋藤茂吉『あらたま』〈前〉(1921年)

 一面には、「光」の歌集である。

ふりそそぐ秋のひかりに乾(ほし)くさのこらへかねたるにほひのぼれり
こころむなしくここに来(きた)れりあはれあはれ土の窪(くぼみ)にくまなき光

 一首目、「ふりそそぐ秋のひかりに」という歌い出しにまず親近感をおぼえる。一首全体を見てもゆったりとしていて、『赤光』のときとはちがうどこかのびのびした感じがある。(第一歌集特有の緊迫との差、という面もあるだろう。)「ふりそそぐひかり」と「たちのぼるにほひ」とが交錯する。
 二首目これもまた「こころむなしくここに来れり」の初句字余り、二句切れにつかまれる。光景としてはどうということはないのだが、「くまなき光」を見てしまうところに「こころむなしく」の心情が映っている。

うつし身はかなしきかなや篁(たかむら)の寒きひかりを見むとし思ふ
ひとときを明るく照りしたかむらにこもるしづかさや夕づきにつつ

 大正四年、「小竹林」という一連から。二首目、「照りし」であるから、「たかむら」自体が明るく照っているわけだ。であるからこそ、「こもるしづかさ」の「こもる」感じがすっと入ってくる。「照らされし」であれば、こうはいかない。
 それかたもうひとつ。四句切れからのこの結句のやり方に、今すごくはまっていて、四句切れで一首としてはほぼおしまいに差し掛かりながら、最後にもういちど世界をぬり直すような鮮やかな転換がある。もうさいごの一声によって、世界の輪郭がくっきりしてくるような、リアリティを後押しするような結句である。

     *

 連写のごとき連作にもおどろいた。
 たとえば「お茶の水」という一連五首は一首目からすべて「蜻蛉」を詠み込んでいる。つづく「七面鳥」一連十七首では、たった一首を除いてすべてに「七面鳥」が詠み込まれている。それゆえに短い場面を描くやり方として、動画というよりもむしろ連写という印象を持った。連写の中から最高のスナップを一枚選び取るがごとくに、読者は自分好みの一首を選ぶことができる。連作のなかの一首ではあるのだが、一首だけをこれと抜き出しても十分に味わうことができるのだ。

七面鳥ねむりに行(ゆ)きて残り立つゆづり葉の茎の紅きがかなし

 そういうわけで、私はこの一首を選ぶ。
 同じ連作には「ひばの木の下枝にのぼるをんどりの七面鳥のかうべ紅しも」という歌が五つ前にあって、その「紅」が残像のごとく映っている。「ゆづり葉の→茎の→紅きが」とのぼりつめていくような韻律が「かなし」を一層強く思わせる。

     *

 もうひとつ正直な感想を言えば、いわゆる現代短歌——たとえば今、総合誌で読めるような短歌——と違わないなあ、と思ったのだった。

しんしんと雪ふるなかにたたずめる馬の眼はまたたきにけり
電車とまるここは青山三丁目染屋の紺に雪ふり消(け)(を)

 この二首がそれをまさに表している、というような二首ではないが、立ち止まらずに自然と読み流してしまいそうな二首ではあった。「うんうん、そうだよね」という、納得とかそういうレベルではない、共感に近い気持ちがあったのだ。

 かたわらに塚本邦雄の『茂吉秀歌 『あらたま』百首』(1978年、文藝春秋)がある。合わせて読むとすごく楽しい。
 先の「しんしんと」の項では、まず「馬は草食獸の中で最も美しい。」と書き起こされる。迫力があるなあ、と思う。時に初出にあたり、あるいは茂吉の自歌自解にコメントをしながら、一首がこまかく鑑賞される。

 「電車とまる」のほうについても少し引用する。(漢字は適宜新字に変換し、ルベはすべて除いた。)

私は想像する。青山三丁目界隈には葉茶屋の褐色の暖簾もあつたらう。八百屋には朱の人参も並んでゐたらう。さまざまの眺めの中から、「紺」に注目し、結果的には「青」に出藍の誉の鮮やかな幻視を内包させた手際を、それが偶然なら、なほさら抜群の言語感覚の賜物だと考へたい。「紅の茂吉」がかういふ冱え冱えとした寒色で見事に別世界を生んでゐることにも注目せねばなるまい。



 「紺」でなかった場合を想像してみて、やっぱり紺であるからこそなのだ、という批評の方法は穂村弘の「改悪例」というやり方と重なってうつるなあ、と、そういうことも思った。
 それでこの歌、私としては、結句の「雪ふり消居り」という短い言い回しに羨望のような気持ちを抱いてしまう。

     *

ちちのみの秩父の山に時雨ふり峡間(はざま)ほそ路(みち)に人ぬるる見ゆ

 上の句をゆったりと使いながら、四句に「峡間ほそ路に」と押し込めるような形でポイントが述べられる。大きな景から小さなポイントへの移行はこうやって韻律の面からもなされるのだと妙に納得する。それにしても「峡間(はざま)ほそ路(みち)に」には感嘆する。「峡間のほそ路(ぢ)に」ではポイントの提示はうまくいっても、結句への誘導は刺激的なものにはならない。「aaa/ooiii」と「aaao/ooii」のこまかな違いであるが、たとえば「路(みち)に」は三連符のやうにもひびき、また、「見ゆ」の「み」をおびきよせるところがある。そこまでしておいて、「人ぬるる見ゆ」であるから、不思議な気分になってくる。時雨であるから、「ぬるる」ってそりゃ当然でしょう、と言いたくもなるのだが、一首の形としてはそういうツッコミをさせないような情景となっている。

ゆふされば大根の葉にふる時雨いたく寂(さび)しく降りにけるかも

 葉に/ふる/時雨の刻むような韻律が、なんど音読してもたまらない。下の句はゆったりと歌い流されるようであって、先の一首と対照的でもある。

(つづく)



※『あらたま』の歌の引用はすべて『齋藤茂吉全集』(1973年、岩波書店)に依ります。
※(  )でルビを示していますが、もとよりすべての漢字にルビがあるため、煩雑になるのを避けて、大幅にルビを省略して引用しています。
※旧漢字についても、ほとんどのところを新漢字で置き換えて引用しています。

大室ゆらぎ『夏野』(2017年)〈後〉

 大室ゆらぎ『夏野』(2017年)〈前〉につづけて書く。

     *

 生き物の気配の濃い一冊である。
 それはときに死のほうから照射される生であり、また体温と体温とが呼応するところにうまれる生である。

これほどにおたまじやくしがゐるからはその四倍は出づる手と足
手と足はつめたいけれど胴体はまだあたたかいその腹を撫づ

 おたまじゃくしがたくさん居て、それらはやがて手が生え足が生えして蛙になる。おたまじゃくしがみな蛙になるとすれば、おたまじゃくしと蛙の数は等しい。「たくさん居る」感じに変化はない。しかし、「その四倍は出づる手と足」と言われてみると、あまたの手と足がうごめきひしめくさまが浮かんでくる。不気味でさえある。
 2首目、「たましひの玉藻」という一連から。「玉藻は黒猫 入院中死去 九歳」とあるので、「手」「足」「胴体」「腹」はその黒猫のものであると思われる。「つめたい」ところと「あたたかい」ところがある、という描写からは、その肉体感のリアルなところを感じると同時に、その「時」が固有であることが思われる。手も足も胴体も触れたのちに、まだあたたかい腹を撫でるのだ。生のかすかな、しかし濃い気配がある。

     *

 一冊を通して温度の保たれた歌集だなあ、と思う。〈われ〉のかげは幽霊のようにしたがうが、精神だけが浮遊しているようなふしぎな立ち姿をしている。

振りかへるゆふべ寒しも襟首を十二夜月に差し覗かれて

 差し覗かれて、と言われることによって月とわたしの温度はひとしく映る。二句切れのあざやかな場面転換も寒さと通じるところがある。

繰り返すよろこびはあり元旦もふとんについた猫の毛を取る

 繰り返すことのよろこびを言い、それはたてえば元旦「も」ふとんについた猫の毛を取ることだと言う。こういうスタイルは〈よろこびは遠くにありぬ白昼を砂州の薄さに浸みる川水〉(大室ゆらぎ『夏野』)にも見られる。読者はまず「繰り返す」ことの中身を思い、元旦という特別な日でさえ、ふだんと変わらず猫の毛を取るそのしぐさを思い浮かべる。

熟れ過ぎた桑の実を摘む潰さぬやうに 潰してしまふ

 四句欠落と読んだ。「潰さぬやうに」の慎重が生んだ時間だろう。いかにも沈黙がふさわしい。「潰してしまふ」はごく自然な成り行きにうつるのだ。

あたたかい犬のからだを抱き上げる立てなくなつた犬のからだを

 「ゆらぎの死」より。〈ゆらぎはダルメシアン 十三歳〉とある。「あたたかい犬のからだ」は抱き上げる動作をあいだに挟むことによって「立てなくなった犬のからだ」に更新される。これは〈わたし〉の意識であるのだが、「犬のからだ」ということばを二度使うことには、〈わたし〉の側の変化によって二度目のそれは一度目とはちがうものになっている。たとえば〈川土手にジグソーパズルは燃やされてジグソーパズルのかたちの灰は残りぬ〉(大室ゆらぎ『夏野』)という歌があり、ここにも「ジグソーパズル」が繰り返し用いられる。

     *

日本語に訳されたときホメロスに軍記物語の文体は顕つ

 このたった一首を挙げただけであれこれ言えることではないし、小池光が帯に書いた「かわりばえのしない日常生活に、ギリシャ・ローマの古典などがふと影を添えてくる。」という一文を引用するほかないのだが、生物の糸があれば、こうした古典の糸もあり、それらが織り合うように一冊となっている。
 翻訳というのは、意味内容の面ではある程度正確に書き換え得るのだろうけれど、その文章の温度や文体やリズム・テンポをどの程度再現あるいは翻案してみせるか、というのは翻訳者の腕によるのだと推測される。そういう点から一首を読めば、原文で読んでいたときには感じられなかった軍記物語の感じが訳文によって顕れ出た、ということだろうか。あるいは、訳者の意図によっていわば軍記物語風(ふう)に書き換えられた、ということだろうか。それはともかく、いまこの場においては日本語に翻訳される前と後のものが想定されていて、そこにひとつの更新があったことは確かである。そのことが「文体は顕つ」という結句にあらわれている。

 さいごまで、とりとめなく書いていく。

遠雷を恐れて帰る、小走りは日本の女のしぐさならむよ

 遠くのほうで雷が鳴っていてじきこっちにもやってきそうなあやしい雲行きである。はやいとこ家に帰ろうと小走りになる。思いっきり走ってもいいところを、小走りである。着物をきていれば大股では走れない。そのころに身についた姿勢だろうか。あるいはそういう姿勢になるように着物が作られたのだろうか。全くの想像で何も言えないのだが、「小走りは日本の女のしぐさならむ」と言われたときに想像できることはいくらでもある。姿勢が精神をつくるし、精神が姿勢をつくる。

花のうへに花は積まれて腐りつつ土手へとつづく日ざかりの道

 ひとつ前に〈野づかさの墓地のはづれに束のまま捨てられてをり枯れた仏花は〉(大室ゆらぎ『夏野』)とあるので、そのイメージを引き受けて読む。まえに供えた花をのけて新しくもっていきた花を供える。古い花はその辺に積まれたままになっているのだろう。枯れる部分もあるが、水につけているので腐るというほうがあのじめっとした空間をも想像させてくる。

終日を黙つて過ごすにんげんがことばを持つて七万年後

 にんげんがことばを獲得し、それを使い、いろいろのことができるようになり(またできなくなり)、ともかくその突端の今日のひと日を黙って過ごす、ことのふしぎはなんだろう。いや、別に何も話さない日があったっていいわけだが、こういう時間のスパンで言われると変なことのようにも思われる。ことばはこれからどうなっていくのだろう。
(おわり)



※引用はすべて歌集『夏野』(2017年、青磁社)に依ります。

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生まれ。「やまなみ」所属、野田光介に師事。16歳より作歌を開始。2016年、歌壇賞候補、現代短歌社賞次席、「温泉」50首が話題になる。2017年、現代短歌社賞次席。
▶︎現在、鳥ノ栖歌会に参加。ツイキャスユニット「いいぞもつとやれ」、企画同人誌「tanqua franca」で活動中。
▶︎初期作品を「空を見てゐる」18首にまとめています。その後の2014年〜2017年の作品は『湯』『温泉』にまとめています。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はkyushu.sc.m.yamasho@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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