本多真弓『猫は踏まずに』(2017年)

全体にとても安心感のある歌集である。安心感、というのは、いろいろなことに因ると思うが、一つは表現のことに気をとられずに作品世界に入っていけた、というところにあり、もう一つは短歌表現を使いこなすとか、表現の変化で遊んでいるとか、そういう余裕のようなものを感じたからだろう。相性、というのもあるかもしれない。

けやき通りと名づけるために植ゑられた欅はいいなともだちがゐて
goと打てば〈ご多用中恐縮ですがどうぞよろしくお願いします。〉と出てくるわれのパソコン

1首目、そうか名前が先にあってそれから木が植えられるのか、と気づかされた。むろん、そうでないところもあるだろうが、都市計画の側面を思えば、名が先で、その計画に沿って街路樹が植えられていく、というのはすっと納得できる。いわばそういうひとつの発見を経由しながら、「欅はいいなともだちがゐて」というふうに歌は収束する。「けやき通り」に並ぶ木はみな欅なのであって、そこにはたしかに同期とか同窓生とかそういう一体感が生じるのかもしれない。ほんとうのところはわからないが、「ともだちがゐて」「いいな」といううたい口からは、ともだちがいない〈私〉の姿がほんのり感じられる。それをいやだ、どうにかしたい、とまでは思っていないふうでもある。

2首目、パソコンの変換にまつわる歌である。材としてはありふれたものであるが、なかなか機能的なパソコンに仕上がっているようだ。goは「ご」を出力するわけだが、定型文として「ご多用中恐縮ですがどうぞよろしくお願いします。」という一文が瞬時に表示されるようである。ふだんからよく使うお決まりのフレーズなのだろう。おもしろくもあり、すこしかなしくもある。しかしキーを打つ手間は省けるのだから、時間短縮にはなる。go、の先に何を入力したかったかによっては、これは思わぬ結果であったかもしれぬ。「ご飯なんにしよう」と打ちたかったのかもしれない。「ごめん、ちょっと遅れる」だったか、とも想像する。そうなるとどこか脱力感のようなものが浮かんでくる。字余りは気にならない。むしろ、定型を意識して早口に読もうとすることで、いかにもすらすらでてきた定型文、という感じが強調されて、内容にマッチしているのではないか。

一首の言っていることはわずかであるが、いずれも、そこからいろいろと想像したくなるような歌である。こちらにその想像を無理強いするような圧力はないのだが、分け入ってみると存外楽しい、そういうところに安心感をおぼえたのかもしれない。

     *

草臥れて立ち上がれない夜もある会社近くのドトールの隅

あるある、と思う。どかっと座ってもう動きたくない。立ち上がって帰る気力がない。体の疲労のこともあれば、何かが終わったことによる安堵のこともある。その内面を掘り下げていく、という歌い方もあるけれど、ここではあえて表面的な描写にとどめている。そのことで読者は風景に立ち入ることができるし、あるいは自分をそこに座らせてみることもできる。

このあひだきみにもらつた夕焼けがからだのなかにひろがるよ昼間にも

こういう、先の一首に比べればいくらか抽象的な歌もある。「きみにもらつた夕焼け」とはなんだろうか。きみと一緒に見た夕焼け、きみが連れていって見せてくれた夕焼け、きみが写真を撮って送ってくれた夕焼け、と想像してみる。いずれも具体的な場面である。そうでない、抽象的な「もらった」「夕焼け」をイメージしてみることもできるだろう。いずれにしてもこの歌の眼目は、夕方ではない「昼間にも」、その光景がからだのなかに広がってやまない、というところであって、この「昼間にも」というだめ押しのような一言が字余りをもって結句に置かれることで、臨場感がうまれてくる。

ともだちのこどもがそこにゐるときはさはつてもいいともだちのおなか

「ともだちのおなか」を触ってもいいか、触ってはいけないか、とういうのはどこかに決まりがあるわけでは(たぶん)ないけれど、何となく、触ってはいけない、ということになっている。子どもの頃はそうでもなかったかもしれない。〈私〉という意識はあいまいで、〈私の身体〉の輪郭はおぼろで、(ものにしてもひとにしても)他との距離はすごく近い。しかし次第に〈私〉というものが意識され、他との違いから〈私〉を立ち上げていくうちに、人との身体的な距離はどんどん遠ざかっていく。そういうわけで、知らず知らずのうちに、「ともだちのおなか」は「触ってはいけないもの」になってしまうのだ。ただ、例外というのもあって、「そこ」というのはおなかの中だと思うが、つまり妊娠中であれば、触ってもいいということのようである。それだって誰かから許可がおりる、という種類のものではないのだが。でも、何か暗黙の了解とか、状況が許す、みたいなことってふだんの生活のなかにはたくさんあって、その一場面として、この歌があるのだろうと思う。全部ひらがなで書かれているところも、メタ的な意識が現れているようだ。

三年ぶりに家にかへれば父親はおののののろとうがひしてをり

三年ぶり、という具体的な数字が一首を読み終わったときには意味をもって迫ってくる一首である。父親のうがいの音に耳がむく、あるいは、その変化(または変わらなさ)に気づく、そのための三年間、というふうに思われてくる。「おののののろ」という擬音語も絶妙だ。喉で水を転がすところを言い得ているように思う。この歌はこの擬音語が極らないと、歌としてぼんやりしてしまう。

     *

ここまでとりとめもなく書いてきたが、どの一首をとっても、とりとめもなく何かを書けるような、だれかと話せるような感じがあるのだろう。いわゆる一首の独立性と言ってもいいが、物語がうまいこと排除されていると言ってもいい。全体を通底するトーンのようなものはありながら、いい具合に筋がとってある。大きな骨が抜いてあって食べやすくなった魚のようである。

ふれられてひかるからだがあるころにわたしあなたに出会ひたかつた
はじまりに光があつてさよならはいつもちひさく照らされてゐた
待つことも待たるることもなき春は水族館にみづを見にゆく
きみの目を見たことのある目をあらふプールサイドに夕景がくる

恋のうたである。身もこころも一生にひとつ、あのときこうだったらとかあれが今ならこうするのにとか、何ひとつかなわない。「ふれられてひかるからだがあるころ」は(おそらく)もう来ないし、逆に今のこのからだも刻々と変化していく。だからこそ、忘れてしまってなかったことにしたいことさえも愛おしいし、それはなかったことにはならないし、いまのわたしのどこかにひっそりと息づいているものだ。「はじまりに光があつて」「みづを見にゆく」から開かれる世界観に独特がある。4首目、「きみの目を見たことのある」と改めて口に出されることで、その「きみの目」がいま眼前にはないことが強調される。目をあらっても、きみの目を見なかったことにはならない。プールサイドの夕景がそのことを包んでいる。



*歌の引用はすべて歌集『猫は踏まずに』(六花書林、2017年)に依ります。
スポンサーサイト

川野里子『硝子の島』(2017年)

今期もっとも力のある連作になるのではないか、と「Place to be」28首を読みながら思った。角川「短歌」4月号の巻頭作品である。連作の筋は一本ありながら、さまざまな〈世界〉を行き来し、手繰り寄せして連作空間が膨張していく。底なしの一連なのだ。もっとも、何かひとつのテーマをぐりぐり掘り進めたり、あるいは、ひとつのモチーフとからめながら、つまりその視点を得たことによって日常の空間をある意味で歪ませながら連作を展開していく方法は川野のひとつの方法なのだと、そういうことを思いながらこの第五歌集『硝子の島』を読んだ。

ぬりかべのどまんなかあたり穴あけて息子怒りぬぬりかべは我
営業マンの息子のズボンの皺深し石抱くやうに正座して来し

息子を読んだうたを2つ引いた。「ぬりかべ」というと『ゲゲゲの鬼太郎』に登場する妖怪であるが、「ぬりかべ」というものにずぶずぶ入っていって一首が成っている。息子の怒りが、ストレートに「我」を貫いていく。スピーディーに展開される一首は四句切れで再び立ち上げられて、力のこもった声となった。この次の歌に〈老い老いて次第に軽くなる母が一反木綿となりて覆ひ来〉がある。これも同漫画に出てくる妖怪である。『ゲゲゲの鬼太郎』の〈世界〉と混じり合うことで、そのイメージを援用するにとどまらず、思わぬ鉱脈に行き当たるようなところがある。

1首目が隠喩ならば、2首目は直喩である。「石抱くやうに」が拷問めいていて痛々しい。ひとつ前の歌に〈あさがほの仕事は花をひらくこと出勤するがにつぎつぎ咲(ひら)く〉とある。このうたにもある痛ましさがあって、先の一首がじっとし続ける苦痛であれば、こちらには絶えずひらき続ける苦痛がある。

     *

ある時期に刊行された歌集には共通のことなのだが(そしてそれは奇妙な読書体験でもあるのだが)、この歌集も東日本大震災を含んでいる。海外でその報せを得たようだ。

列島に日本人のみ残るといふあの舟に吾は帰るべきなり
はなみづき今年希有なる美しさ爆発しつつ美しさ咲く
風あやふく光あやふく水あやふき日本に燕よ帰りくるるか
防護服うすがみに命つつまれて働く人あり百合の白さに

海外にいたからこその「日本人のみ残るといふ」というこころだろう。1首目の「日本人のみ」というのは当たり前だけれども、当たり前ではない。日本にやってきている外国人であれば、祖国に帰る(避難する)こともできるだろう。日本人であっても海外に避難することはできる。できるとしても、それは「帰る」ではない。

2〜4首目は原発事故が念頭にあるものと思われる。「爆発しつつ」の「爆発」は「美しさ」であり「はなみづき」であるのだが、しかしそのさまを「爆発」という語彙をあてて述べるところに、原発のことがある。結句の「美しさ咲く」という表現は奇妙であるということを越して、ある力を帯びている。3首目、抽象化・韻律化することによってただよう「あやふさ」を描写しつつ、そこにくっきりと形ある「燕」をうたっている。「帰りくるるか」という呼びかけは素朴にひびきながら、諦念のようなものもすけて見えるようだ。4首目、「防護服」の白さを百合の白さになぞらえる。グロテスクな感じもある。(余談だが、この震災以後(かどうかは定かではないけれど)、「防護服」というのがひとつの詩語になってしまったようにわたしには感じられて、その事態に対する恐れのようなものを思っている。)

     *

テーマの上で「Place to be」へとつながっていくのは、次のような、母をうたった歌群である。

老母の手を離してはならず離したき心あるゆゑ離してはならず
さうめん流しひゃーとさうめん流れゆきわれとわが母取り残されぬ
さびしさは薬で癒やすことできず七種類飲んで母寂しがる
わが裡のしづかなる津波てんでんこおかあさんごめん、手を離します
                 (「てんでんこ」には傍点(・)が付されています。)

母をとるか、自分をとるか。介護のことはどちらかが力尽きるまでついてまわる。「手を離す」というのは「手放す」という語を呼び込みながら、同時に、津波で生の側と死の側を分けた最後のところを連想させ、またそのイメージを展開させて4首目のような歌に結晶する。歌集のなかには〈手を、離してしまつた悔恨はいくたび迫らむ津波ののちを〉という歌もある。

わが家がいいやつぱりわが家が一番、と言はなくなりぬ老母の何かが
ベッドがひとつ便器がひとつ陽当たりの良き部屋ここに母は捨つべし
椅子、簞笥、カレンダー、湯飲み漂流す母が生活あきらめし家に
母よりわれがわれよりは子が生き残るべきなり白い椿は咲きて

家で生活する(させる)ことをついに断念した。そのことを自省する。一方的に自らを責めるのではなく、そこに横たわる大きな筋のようなものに触れ、切り込むような気負いがある。ぐるぐると思考は止まず、良い悪いとはちがうところでこの状況を捉えようとしている。そのときに、川野の方法が生きてくる。なにかと取り合わせ、混じり合いながらひとつの描き方では取りこぼしてしまいそうな側面をじっとりと絞り出していく。この歌集は、繰り返し読み、検討したいと思う。1首のことから連作、歌集ということへの方法が詰まっているように感じている。

   *

「Ⅲ 河童抄」はそのとおり河童の章である。その最後の連作「河童日和」から2首を引く。

広辞苑は河童を詳述してやまず身に鱗あり毛髪少なく云々
水掻きの名残ある手をあたらしい手のやうにひらく湯船のなかに

河童を見つめようとして広辞苑をひいてみる。すると河童について詳述してある。こんなにも書いてあるのか、と、その現場感のある歌である。具体的にその詳述の雰囲気がわかるように抄出されてあり、マスコット的な河童とはちがう世界に分け入っていくことが示唆される。河童というひとつのモチーフを通して、〈私〉のなかの枠組みが解体され、更新されていく。「あたらしい手のやうにひらく」という動作には、そのことへの畏れと歓びがしずかに宿っている。



*歌の引用はすべて歌集『硝子の島』(短歌研究社、2017年)に依ります。

山川藍『いらっしゃい』(2018年)

1首1首に歌のポイントがわりあいはっきりあって、その部分を面白がることができた。ひとつ特徴をあげてみると、「もうひと押し」のあるうたというのがある。

火葬場へ向かう猫入りダンボール「糸こんにゃく」とあり声に出す

たとえばこのうた。四句目までは描写である。もともと「糸こんにゃく」が詰まっていたダンボールなのだろう。それがめぐりめぐっていま、猫が入っている。火葬場へ向かうのだから、その猫はもう生きていない。もっとほかの入れものはなかったのだろうか、とも思う。よりによって「糸こんにゃく」。でも一方で、猫とダンボールの親和性はそれなりにある。そのあたりをひっくるめてのある種のズレがあって、一首におかしみを生んでいる。しかし歌はそこでは終わらない。「声に出す」とある。「糸こんにゃく……」と読み上げているのだ。すると、このおかしみがいくらか増幅され、一方では声に出してしまうという別種のおかしみが生まれる。景色はよりくっきりとしたものになる。

     *

歌集には猫がよく出てくる。

一日に百グラムずつ軽くなり猫は金斗雲で飛んでいく
「天国に行くよ」と兄が猫に言う 無職は本当に黙ってて

一日に百グラムずつ軽くなり、という具体が(それが正確な数値であるかどうかは別にして、つまりは方法として)日に日に衰える猫のありさまを伝えている。軽くなり、(その結果)猫は「金斗雲で飛んでいく」とつづく。このユーモアがせつない。ここでは(その結果)というふうにおぎなって読んだけれど、その順接があまりにもスムーズに展開されていて、そのこともこの情感をひきたてている。助詞を省くことによる効果だろう。因果が強調されないことによって「当然」であることが補強される。金斗雲の速さは秒速6万キロメートルともいうから、本当にあっという間に遠くへいってしまうのだ。もう引き返せない。

その猫にむかって「天国に行くよ」とこちらもユーモアで応える兄である。しかし「わたし」は「無職は本当に黙ってて」ときびしく応じる。「天国に行くよ」には鍵括弧がついているので、この「無職は本当に黙ってて」は声には出されていないのだろう。ここで職についているかついていないかということが、「天国に行くよ」と言う資格につながる理屈はない。ないのだけれど、気持ちとしては「黙ってて」なのである。「本当に」がもうひと押しになっている。

さて、その兄である。兄の歌もいくらかある。

目が覚めてもうおしまいの夜半なれば無職の兄とゾンビ映画を
無職歴ベテランの兄新米のわたしと家の猫を取り合う

この歌でも「無職の」と付く。この無職であることへのこだわりは何だろうと思う。「もうおしまい」という意識は、「無職の」という視線で見てきた兄と同じ立場になってしまったことからくるのか。そんな単純なものではないようにも思う。この一冊のなかでは「無職」ということがなにかまばゆくも映されている。

働くということ、それにまつわるお金のこと、職場のこともひとつの話題になっている。

事務所まで戻れば四十円安い愛のスコール駅で飲み干す
非正規の人にも届くボーナスのお知らせだけでボーナスはない
自立しろと言われてあげたお年玉返してもらう父より五千円

「愛のスコール」というのはキャッチコピーである。飲み干すのは「スコール」なのだが、一首のなかにはあるニュアンスを込めてキャッチコピーをそのまますべりこませてある。(ちなみにスコールはデンマーク語で「乾杯」を意味するらしい。「飲み干す」ともおのずとひびき合う。)事務所まで戻れば四十円安い(のだけれど)駅で飲み干す。ここで「のだけれど」とは読者の思い込みだが、たんに思い込みと言って退けられるものでもないだろう。

ボーナスのお知らせのメール(か文書か)は一斉に送信され、ボーナスをもらう人にももらわない人にも届く。「非正規」という立場を思う。「無職」という眼差しもうっすらかさなってくる。ところでこの「ボーナスのお知らせだけでボーナスはない」の「だけで」で繋ぐやり方にはたじろいだ。プラスチックをぐにゃっと曲げたらパキッと割れた、みたいな衝撃がある。単にボーナスがないのではなく、「ボーナスのお知らせ」は来るのに、その対象でないためにボーナスはない、という状況がじかに伝わってくるようだ。

父にあげたお年玉。その五千円を返してもらう。お金にこまったのだろうか。自立というのは難しい。口では自立自立と言って、いっときはそれらしく生活できていても、その状態を維持するのは思いのほか困難がともなったりする。五千円という額も、大きくはないが小さくもない、リアリティのある額だとわたしには感じられた。少し無理してお年玉としたのかもしれない。あるいはそのときはこれくらいなら痛くないと思ったのかもしれない。状況は変わる。しかし無理をしてでも自立しなくては、「いつか」はいつまでたってもやってこない。

     *

気になる歌はたくさんあるのだが、それらの歌について何かを言おうとすると困ったり怯んだりするところがあって、思うように書けなかった。生活の、それもかなり実際のところが臆面もなくうたわれていて、うたについて言及しようと思えば、自分の生活をさらすことにもなるからだろうか。あと3首あげて終わりにする。

下ばかり見て帰り来しそのままに開ける冷蔵庫の野菜室
自転車を漕いでる風で泣けてくる映画一本見てへとへとだ
この家の前を人殺しが何度通っただろう 窓開けて寝る

下ばかり見て帰ったことが野菜室へ行き着くところまで書ききるし、「へとへとだ」「窓開けて寝る」まで言いきる。この「もうひと押し」に何も言えなくなってしまう。それこそ「黙ってて」と言われているみたいに。



*歌の引用はすべて歌集『いらっしゃい』(角川文化振興財団、2018年)に依ります。

初谷むい『花は泡、そこにいたって会いたいよ』(2018年)

イルカがとぶイルカがおちる何も言ってないのにきみが「ん?」と振り向く

水族館のイルカショーをふたりで見ている。背景に音楽がかかっているかもしれない。水の音が残っているだろうか。歓声もあるだろう。それなのに、イルカがとぶ/イルカがおちる、はその映像だけを伝えてくる。無音だ。その一瞬、「きみ」は何か言われたと思って振り向く。ことの順序で言えば、「ん?」と振り向く→何も言ってないのに、となるはずだから、イルカがとぶ/イルカがおちる、とはちがった述べ方をしている。きみが「ん?」と振り向いたことによって静寂がやぶられる。ふたたび無数の音にとりかこまれる。

     *

初谷むいさんのことはまずツイッターで知って、それからいろんな人がつぶやいている歌をさかのぼって読んでいって、その中に冒頭の一首もあったんじゃないかな、と思う。一首で読者のまえにあらわれたときの存在感が際立っていた。いま歌集のなかにそれらの歌とともに様々なほかの歌とがあって、そうしたときにはまたちがった歌に惹かれるようだった。

電話中につめを切ってる 届くかな 届け わたしのつめを切る音

この歌においても、わたし/きみはたしかに隔てられていて、しかし今度はわたしのほうからきみに向かっていっている。電話中につめを切ってる、という状況がまずある。「届くかな」というのは唐突だけれど、それは「ん?」のような、何か世界を動かすような、そこに音をつけたすような装置になっている。「届くかな」と思うことによって、届く/届かないという軸が世界に加えられ、空間は構造をもち、色彩がうまれ、そのことによって「届け」という思いがあらわになる。

「わたしのつめを切る音」はかすかなものである。それも電話越しに。きみは「ん?」と振り向くだろうか。振り向いてほしいのだ。

果汁一パーセントでもゆずれもん あなたひとりでこの世のかたち

果汁一パーセントであってもそのことによってゆずれもんたり得るように、あなた、たったひとりであっても、そのことによってこの世界がわたしにとっての世界たり得る。それくらい、あなたの存在はなにか決定的なのである。あるいは、あなたの存在が物質的にはどれだけ希薄であろうと、感覚の部分ではそんなの関係なく、それだけで立っていられる世界なのかもしれない。

何気ないエピソードにこころおどったり、誰にも気づかれなくてもきみにだけは届いてほしいと願ったり、もうあなたがいるだけで世界の見え方(=この世のかたち)が変わってしまったりする。ひりひりするような隔たりと交わりがある。

氷水から氷を出してあなたはぼくの水も氷水にしてくれた

交わりと言えば、たとえばこの一首。あなた/ぼくは氷水/水であった。その氷をきみがくれて氷水/氷水になる。冒頭の一首のように、ごく日常的な場面(たとえばご飯を食べにいって、あなたはお冷やの氷を指でつまんで取って、ぼくのグラスにいれてくれる)を思い浮かべて読んだけれど、あなたがぼくのほうへ入ってくることによってぼくがあなたに成り得るかのような幻想、あるいは水を氷水にしてしまうような暴力がここにはあって、一首はあるメタファーとしても機能しているように思う。

立っていて 光の中に さかなかえるわにはとわんこぼく走ってく

先の一首は「光の中に立っていてね」という連作の冒頭の一首で、この「立っていて」のうたはその末尾の一首である。さかな、かえる、わに、はと、わんこ、ときて最後に「ぼく」である。こんどは「ぼく」が「あなた」の方へ走っていく。最後尾から。魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類が並べられ、そのいちばんうしろから(おそらく)人間である「ぼく」が行く。「あなた」の存在によって「ぼく」の世界は輪郭をもち、意味が発生し、その「あなた」へ交わっていこうとするこころとからだの動きが「ぼく」を「ぼく」として自覚させる。

     *

ぼく(わたし)/きみ(あなた)がどう関係しているか、ということよりも、どうそこにあるか、ということを見せてくれた歌集だった。もう3首引いて終わりにする。

自転車の座席がちょっと濡れていた ゆびで拭ってもう秋が来る
死後を見るようでうれしいおやすみとツイートしてからまだ起きている
暗い方がいいと言われて消す電気 星 よみかけの吉本ばなな

一首目、秋はかってにやってくるけれど、「ゆびで拭」うことで秋をおびきよせる。二首目、「おやすみ」とツイートした人は隣にいるのだろう。「おやすみ」とつぶやいたのでタイムラインのうえにおいては寝ているのだけれど、現実にはまだ起きている。なるほど死後とはそういうものかもしれない。「ぼく」だからできることだ。そのことがうれしい。三首目、「暗い方がいい」の段階ではなにが暗い方がいいのかわからない。それがだんだんはっきりしてくる。「ぼく(わたし)」がいること、ただそれだけで、世界は世界なんだなあと思う。



*歌の引用はすべて歌集『花は泡、そこにいたって会いたいよ』(書肆侃侃房、2018年)に依ります。

なみの亜子『「ロフ」と言うとき』(2017年)

著者4冊目の歌集。期間で言えば、2012年春からおおよそ2016年春までの作品が収められているとのことである。歌の数は413首と「あとがき」にある。少なくはない。導入部を抜けるまでがすこしきつかった。

しゅうまいをどこへやったと訊けば訊くほどに泣きじゃくるなり母さん
泣きたさが身体でわかる母むすめ午後いっぱいをしゅうまい探して

このあたりから、少しずつ歌集の世界へ入っていくことができた。「しゅうまい」というアイテムが唐突で、それが「母」には必然であり、しかし「むすめ」にはわけのわからないものである、というちぐはぐな感じに痛みを感じる。「あるべきものがない」もどかしさと、「あるはずのないものがある」もどかしさが、泣きたさへ至る。

どれくらいぶりかシャンプーしてやれば母より匂う雨の日の樹皮

生っぽいにおいだろうか。「雨の日の樹皮」が詩へ踏み込みすぎているきらいもあるが、「樹」ではなくて「樹皮」というところが、ぎりぎりリアリティをささえている。晴れの日、風の日、雨の日、くもりの日、雪の日、いろいろの匂いがあるのだろう。ほとんど匂いがしない日もあれば、強烈に匂う日もあるか。シャンプーするときの頭と顔の距離、樹皮を嗅ぐときの顔の近さも思われる。

じゃが芋のキムチスープに温もりておまえの料理はいい、と言う父
二人目のわが亭主さかなに米焼酎〈しろ〉を空けたり父と冬の夜

母との時間と同じくらい、父との時間もまた印象深い。「おまえの料理はいい」ということばにはいくつもの感情がいりまじる。「おまえ」という呼び方。「おまえの料理は」における「は」という限定。「いい」という評言(たとえば「うまい」ではなく)。「父」という体言止めが長くこのつぶやきを味わわせる。二首目は四句切れなのだが、「空けたり」という飲みきった、瓶(パック?)が空になった、という状況と切れがぴたり重なってしばし呆然とする。「父と冬の夜」という結句がその余韻を殺さず逃がさず引き締めている。

母を忘れ置き去る父を母さがしさがしに行った母を父さがす

混濁として切れ目ない日常である。境ないことの苦しさが抜け出せない韻律から滲んでくる。

     *

山に暮らす人である。暮らしの描写が、ひとつの生活の形を提示する。

なにものも渡らぬ鉄橋このようにさびしきものを渡す山合い

なにものも渡らない鉄橋というのは確かにさびしい感じがある。かつては往来があったのかもしれない。あるいは、ふだんほとんど使われておらず、時折必要とあって渡るひとがあるだけなのかもしれない。ひとつ山合いの風景である。結句では「さびしきものを渡す山合い」というふうに、風景は山へ返される。〈私〉を渡って「さびしきもの」は風景にもどっていく。「なにものも渡らぬ」と同じ「渡る」が結句でも「渡す」として使われているところも慎重に読みたいところだ。

春告げて春を越しゆく鶯は日ごと日ごとに鳴きを鍛えつ
小花もつ樹に近寄ればおんおんとおんおんと蜂の現場は沸きぬ
避けないで歩くわたしと犬二頭蜜とる蜂のいそがしければ

「鳴きを鍛えつ」「現場は沸きぬ」いずれも独特の表現と映る。魅力的である。「日ごと日ごとに」「おんおんとおんおんと」のリフレインが結句の硬質な表現へ道筋をつくっている。

絶望はむしろなつかしき手触りにわれをとらえよ山に鳴く鹿

     *

谷に水しゃがむを見たりかわいくてかわいそうだった母とうひとは
数ばかり数えていたり調子よく数える母の声に陽のさす
92でやめてもいいかと母の訊くまた数えだす23から

ふたたび母のうたを引いた。今度は数を数える母である。「しゅうまい」と対をなす、どこかおだやかな表情がうかんでくる。「声に陽のさす」というところからそう思うのかもしれない。「やめてもいいか」という質問はなにか哀しげであるが、「また数えだす」に不安は解消される。「23から」とあって、その安堵もまた束の間のものではあるのだが。

性欲は根こそぎ失せていたりけりこの夏ゆめによくものを食う

埋まらない欲望を、なにか別の欲望で埋めあわせる、ということがある。性欲のままならなさを食欲でうめるとか、行き場のない食欲が眠気をさそうとか。はっとして気づいたのである。すっかりなくなってしまった性欲に。哀しいか、安堵があるか、寂しいか、はれやかであるか。わからないけれども、「根こそぎ」であるから、そこには大きな喪失感があるだろう。「ゆめに」「よくものを食う」のは性欲が転じたのか。そのあたりの接続はほどほどに、並列の妙を味わった1首である。一冊の終盤にふさわしい、そして次の一冊への予感をおもわせる1首でもある。



*歌の引用はすべて歌集『「ロフ」と言うとき』(砂子屋書房、2017年)に依ります。

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生まれ。「やまなみ」所属、野田光介に師事。16歳より作歌を開始。2016年、歌壇賞候補、現代短歌社賞次席、「温泉」50首が話題になる。2017年、現代短歌社賞次席。
▶︎現在、鳥ノ栖歌会に参加。ツイキャスユニット「いいぞもつとやれ」、企画同人誌「tanqua franca」で活動中。
▶︎初期作品を「空を見てゐる」18首にまとめています。その後の2014年〜2017年の作品は『湯』『温泉』にまとめています。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はkyushu.sc.m.yamasho@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR