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赤信号でいっしょになった

裏切り者、と書かれたシャツを着たひとと赤信号でいっしょになった
   「ビギナーズラック」阿波野巧也

赤信号でいっしょになる、とか、その状況を「赤信号でいっしょになる」と言うそのことを、今の今まですっかり忘れていた。「すっかり」なんて言うとさも以前はすごく意識をしていて、意識していたことさえ忘れてしまった、みたいにうつるけれど、でも以前だって少しも意識していなかったな、と思う。にもかかわらず、この歌を読んだときに湧き上がった気持ちは「知っている」だった。

     *

自分が何を思うかはことばによっている。そのことば、自分の使うことばは自分のなかで勝手に生まれてくるものではない。どんなことばを見聞きし、使い、使われるかによってその都度変わっていく。住んでいるところや、関わっている人や、読んでいるものや、コミニュケーションのやり方によって、知らず知らず変わっていく。ふだんは接することのないような人やむかし関わっていた人と久しぶりに話をしていて自分が(あるいは相手が)変わっていることに、はっと気づく。自分では変化がわからない。

いまわたしは「赤信号でいっしょになる」ということばを使わずに、「赤信号でいっしょになる」ということを意識せずにふだんの生活をおくっている、そのことを突きつけられた。なつかしさもさみしさもないけれど、「知っている」という気持ちになった。

     *

裏切り者、と書かれたシャツ。少し離れたところから見ている。歩いていて、関心はあるけれど、だからといって何かが起こるわけではない。こんなシャツがあるのか、とか、どんな人なんだろうか、とか思うことはできる。思ったかもしれない。声はかけないだろう。
——このシャツどこで買えますか
——裏切り者なんですか
とか。あるいはもう二度と見ることもない人だろう。また別のときに裏切り者、と書かれたシャツを見て、あ、前にもそんなことあったな、と思い出すかもしれない。そのときはもう忘れているかもしれない。あ、あの人、とまさに今見ているこの背中とこの風景とこの今の自分のことを状況を感情を思い出すかもしれない。思い出さないかもしれない。裏切り者、と書かれたシャツにはもう、気づかないかもしれない。

     *

裏切り者、と書かれたシャツの、それは背中に書かれているだろうことも、だからわたしがその人の後ろを歩いているだろうことも、歩いていることも、すべて「赤信号でいっしょになった」が引き連れてくる。「赤信号でいっしょになる」ということばも、概念もすっかり忘れていたのに、こう言われると、「知っている」という気持ちになる。風景がひとつに、少なくとも「知っている」と思ってしまったわたしのなかではひとつに定まる。

     *

赤信号でいっしょになって、そののちどうなったかはわからない。「いっしょになった」という気分だけがいつまでも残っている。



*歌の引用は、『SIT IN THE SUN』(阿波野巧也、2018年)に依ります。
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思うすなわち

そう思うことによってちがう見え方がうまれることがある。

疲弊していたれば歩くときに湧く浮力あり乱雑にわが浮く
   内山晶太
自分の力でお好み焼きを焼く朝の大切に思う自分のちから
   武田穂佳

それぞれ『現代短歌』『短歌研究』の3月号から引いた。1首目は「浮力あり」と思うことによって、それを前提にしてさらにもう一歩、「乱雑にわが浮く」という見え方がうまれている。2首目は「自分の力で」というのを意識しはじめることで、「自分のちから」という概念を得ている。

もう少しくわしく読んでみる。

2首目はお好み焼きを、店の人に焼いてもらうのではなくて「自分の力で」焼いている。そのときはまだ「自分のちから」というのは浮きあがってきていない。ところが「自分の力で」というのを意識することで、この「自分のちから」(ここでようやく概念になった)というのは大切だな、大切にしなくてはな、という気持ちがわいてくる。表記のちがいにもそれが表れている。1首目も同様で、疲弊しているときに歩いているとなんだか浮いている感じがする。それを「浮力あり」と思う。そういう視点でもういちど今の状況を見つめなおすとき、「乱雑に」という部分が見えてくる。

発見や把握の提示にとどまらず、さらにそれを起点にして歌が展開する。思うことによって、そこから、それを土台にすることによって世界の見え方がかわってくる。そのうえで、もういちど、それをつかみなおす。

山道をゆけばなつかし眞夏(まなつ)さへ冷(つめ)たき谷の道はなつかし
   斎藤茂吉『つゆじも』

「浮力あり」や「自分の力で」ほど斬新ではないけれど、この歌においてもまた、「なつかし」と思うことによって、その「なつかし」がさらに細かく描かれてゆく。まず「なつかし」と提示される。読者がそうであるのは当然だが、この歌においては〈私〉もまた「いまのこのなつかしいという気持ちはなんだろう。どこからきているのだろう。」という気持ちになる。そしてそれが三句以降に展開する。「なつかし」と思うことによって、「なつかし」が観測される。

おにぎりの厚さが短歌年鑑のやうだな米つぶの一つがわたし
   田村元

『現代短歌』4月号より。「おにぎりの厚さが短歌年鑑のやうだな」と思うことによって、すなわち「米つぶの一つがわたし」という見方が生まれている。

花水木

「家」を「実家」と呼ぶようになったのはいつだったか。気づいたらそう呼ぶようになっていた、そう呼ぶような場面が増えていた、という気がする。多くは進学や就職を機にそれまで暮らしていた「家」を出て、またちがう「家」で生活するようになったときに、かつての「家」を相対的に「実家」と呼ぶ、という側面はあるだろう。

ただ、それは本当にひとつの側面でしかなく、かつて暮らした「家」を「実家」と呼ぶかどうか、呼び得るかどうか、呼びたいかどうかは、さまざまであろうと思う。また、「家」そのものは変わらず(つまり、ずっと同じところで暮らしていよう)とも、あるときから「実家」と呼ぶようになることも当然ある。

「生家」ということばがあるが、こちらは生まれたところ、あるいは生まれたばかりの頃を過ごしていた「家」を表す。「実家」ということばがもつ相対的なものはここにはなく、ただ事実としての「生家」があるのみだ。むろん「生家」をもつかどうかはこれも人それぞれである。ただ、「実家」ということばは、それに比べてもいくらも複雑である。

いつの間に「実(じつ)」の字をつけ呼ぶ家の道に変わらず花水木立つ
   佐佐木定綱「文机」

角川「短歌」1月号から引いた。「実」の字をつけて呼ぶようになったという変化への意識と、そこから生まれる「変わらない花水木」への視線が「の」を媒介にしてあらわされている。「家の道」は「家路(家への道)」ととるか、「家のなかにある道」ととるか。ここでは後者をとって、庭の広い家を想像する。いろんなことは変わってしまって、わたしも「家」も「花水木」もあの頃のままではないし、今も少しずつ変化しているわけだけれど、それでも「家」と呼んでいたころの〈感じ〉や、今、「実」の字をつけて呼ぶようになった〈感じ〉や、花水木がずっとあって、今もあるという〈こと〉、というつかみどころのないものがむしろ、はっきりと変わらず手のなかにあるような雰囲気がつたってくる。

氷三つグラスに投げて金色(こんじき)のウイスキー傾けている父
   同

同じ一連からもう一首。グラスに「投げて」という手つきから、「父」の姿を想像する。「金色(こんじき)」も昔のままだろう。酒を飲む姿勢や、何を飲むか、どう飲むかにもおのずと歳月があらわれる。変わるものも変わらないものもあるだろう。「実」の字をつけて呼ぶ家への視線の先に、花水木があり、父がいる。



*歌の引用は『短歌』2018年1月号(角川文化振興財団、2018年)に依ります。

短歌日記抄

▶︎2014年11月7日

 何もすることのない日曜日は、近所の焼き鳥屋に行くことにしている。8時くらいまでは夫婦の(それも常連らしき)お客さんで賑わうが、平日の前夜だからか、しだいに店の中は落ち着いてくる。
 おまかせを頼むと、豚バラ、はつ、牛さがり、砂ずり、つくね、ししゃも、ズッキーニ巻き、と来た。1本か2本ずつでやってくるのが焼き鳥のいいところ。その間、キャベツを齧りながら待っている時間が、なんでもないことだが楽しいのだ。
 カウンターから見える、串を焼く手つきや、素早い包丁捌きを伺うのも、楽しみの1つである。

     *

 好きで愛唱する歌に春日井建の次の1首がある。1970年刊行の第2歌集『行け帰ることなく』所収。巻末の連作「青い鳥」の中の1首である。

 岩棚に寝ころぶわれと海つばめ日ねもす無縁に親しみあへり

 日ねもす、は「一生」と思ってもいいだろう。人との関わりあいのなかに普段の生活はあるけれど、結局のところ、誰とも「無縁」である。それは寂しいことではなくむしろ、「無縁」だからこそ「親しみ」合えるものだと思っている。「無縁」ゆえの、それぞれに一人の時間のあることの明るさを、いつも思う。

     *

 平日は家と職場を自転車で往復する。所要時間約40分の、3分の1程度は海と並んで走る。おだやかな日もあれば、荒れている日もある。そんな海の表情を眺めていると、先の1首が口を衝いて出る。
 くりかえし口遊みながら、「無縁」の明るさを嬉しく思うのだ。

     *

 焼酎の氷がきれたところで会計を済ませて店を出る。日曜日の夜は、こんなにも楽しい。明日になれば仕事のあることの、そしてまたそれぞれの生活のあることの明るさ。
 霜月の風は身に冷たいけれど、家までつづく心もとない街灯が、いつもより光って見えるのが殊更うれしい夜だった。

     *

焼き鳥屋のをぢさんはずつと赤の他人なれば愛さむ秋刀魚ください


▶︎2014年12月6日

 何年か前に手帳を買ってもらったことがあった。誕生日プレゼントに。欲しいものじゃないと文句言うだろうからって、たまたま二人で会った日に「買いに行こう。」と言ってくれた。
 それまで使っていた手帳を気に入っていて、同じものが欲しいといってさんざんあちこち見てまわった。まず、時期が遅すぎて9月始まりの手帳はほとんどなかった。その点をあきらめても、同じデザインのものはなかった。
 それでしぶしぶ決めた手帳。今年もまた、買った。これからも毎年買うだろう。買って、その度に思い出すだろう。思い出して嬉しくなって、少しだけ寂しくなって、2年に1度くらいは会いたいと思うだろう。そしてまた、新しい1年が始まることを、楽しみに、思うだろう。

     *

この青い手帳もきつと濡らすだらう振り向けば月のきれいな夜に


▶︎2015年7月21日

 夏と云えども、朝の身体はけっこう冷えている。手元の温度計が27.5℃を示しているから、実際、涼しいのだろう。窓から風が入ってきて気持ちいい。蝉が啼いている。
 そういえば昨日、夕立にあった。まだそんなに遅い時間ではなかったが、あっさりとした通り雨だった。夏だ、と思った。この時期、ソフトボール大会の練習をやっていて、よく中止になったことを思い出す。小学生のころの話だ。

 立ち読みの窓から見てた夕立ちがDVのように過ぎてゆくのを
     山田航「閉市式」

 あのころ、じっと我慢していれば直によくなると思ってやり過ごしていたことがいくつもあった。今だってあんまり変わらないかもしれない。いや、むしろ、一過性の感情を封じて差し出すのが短歌なんじゃないのか。じっとしていればそのうちなくなるものを、わざわざ形にして残しているのだから、状況は良くなった、と言えるかもしれない。
 もろいけど、やわではない。

     *

出しつぱなしの豆腐のやうな我が身とぞおもへる夏の朝の冷たさ


▶︎2015年8月9日

 某所ですこし、話をすることになった。二つ返事で了承したが、気が重いことにはかわりない。心配だが、時間の余裕はしっかりあるので大丈夫だろう、と思っている。それにこのオファーが来てから心を占めているのは、嬉しいという気持ちがほとんどである。楽しみに準備をしたい。

 母の家(や)も自らの部屋へも帰るといふ青年の言葉思へばやさし
     青井史『青星の列』

 仕事を終えて家に帰る、という言い方をする。地元に帰る、実家に帰る、あるいは(学生の頃を暮らした)何処其処に帰る、というときも、「帰る」という言い方をする。自分が過ごした、過ごしている場所は、どこも「帰る」場所になるのだろうか。
 では「家」というのはどうか。「家族」とはどうか。「家」をつくる、というのはどういうことか。そういうことをまたしばらくの間、ちびちび考えておこうと思う。

     *

きみと少し話して帰る すぢ雲が出てゐると気づいたときには一人


▶︎2016年4月3日

 長崎からH氏が来ていて、ゆうべ少し今朝少し話をした。
 会話を繋げていくのが上手い人である。こちらが話をあっちこっちやってしまうのを、うまいこと元の話題にたぐりよせて話を進めていく。話していて気持ちが良かった。話題を切り出したり、切り替えたりするのもさらっとしていて、これは周りの人が爽快だろうなあと嬉しく思ったりした。
 私はと言えば、論理的に話をするとか、説得するように話をするのが苦手である。数学をやっていて何故かと聞かれるが、あちらの論理とこちらの論理は作りがちがう。それに数学には定型があるから、やっていて楽なのである。それは短歌も同じである。その場でとっさに考えて何事かをこしらえる習慣が身についていないのだ。それでH氏が丁寧に質問をして、私が曖昧に話しているところをはっきりさせてくれる。自分でも考えていなかったことや、論として不十分なところを教わるようでありがたかった。
 Hとは高校の同級生で、その頃の思出話もなつかしかった。受験直前にやったキャッチボール。屋上の渡り廊下。トシくん(と勝手に呼んでいる数学の先生)の口癖。N陽堂(高校の近くにあったコンビニ)のレジの奥のゲームコーナー。N地区合宿(いくつかの高校が合同でやった勉強合宿)の朝の集いの鐘の音。もうすっかり忘れてしまっていたことが、手品師が口から出す万国旗のように、するすると思い出される。それがすぐに、今の、それぞれの暮らしや仕事や考えていることに結び付いていく。会話が常に今にもどってくるのだ。H氏が楽しそうに活躍している所以を見たような気がする。

 桜が満開である。
 うすく濁った白い花びらが、今年はすこし心地よく映る。見るたびに姿や印象が変わるのは、桜だけではないだろう。過去だって一つのものではないのだ。必ず今を反射している。いまここに対する真摯な眼差しが過去を美しくするのだろうし、逆に過去になにかよくない印象を抱えているのならば、それは今の問題でもあるのだろうと思う。
 数学には単位円という考え方がある。単位円というのは、1周回って元に戻るように見えるけど、実はちょっとずつ浮いていって、つまりらせん状になっている。平面に描く都合、上からおしてぺちゃんこにしているのだ――というのはこじつけだが、案外よくわかってもらえる。歳を重ねることも、また季節が巡ってくることも、このゆるやかならせんを昇ってゆくようなものではないだろうか。
 そう思うと、一段と気持ちのいい、H氏との再会であった。またいずれ、会いましょう。

     *

counterclockwiseとめどなくπをかさねてまた春がくる

最もかなし

 夕方になると豆腐屋の声が聞こえてくる、という風景を思い出す。豆腐屋さんに行くことはまずないけれど、なんとなくいいなぁと思ってしまう。物干し竿やわらびもちや焼き芋や灯油の販売、家電の回収、夕方に流れる音楽など、なんとなくだが落ち着くものの一つである。夕方の何となくものさびしい時間に、少しの安心感を与えてくれるからだろうか。

・豆腐屋のをぢさんが手にすくふとき豆腐もつともうれしさうなり
     小島ゆかり『純白光』

 豆腐屋のおじさんの手が浮かぶ。単に豆腐を売っているのではなく、そこで作られた豆腐なのだろう。おじさんの手で豆腐になり、そして豆腐として売られてゆくのだ。「手にすくふ」という表現からは、おじさんが手で器を作り、豆腐を傷つけぬように、そっとその器の中へ招き入れるような繊細さが感じられる。豆腐であるから、もちろん鷲掴みなどできない。さぁおいで、というように、優しく抱きかかえるのだ。その手つきがびくびくしていない、慎重な作業なのにそう思わせない安定感がおじさんにはある。
 豆腐が最も嬉しいときってどんな時だろうか、と思う。まるで母に抱えられた子どものように、おじさんの手のぬくもりを感じながらゆらゆらしているとき、最も嬉しそうだと言う。これから食われることへの怖れなど、多分ないのだろう。もうとっくにそういう覚悟はできているのだろうから。

・豆腐握りつぶして食べて言葉持たぬ子どもは豆腐にもつとも近し
     大口玲子『トリサンナイタ』

 子どもが豆腐を握りつぶして食べている。握力の調節が上手くゆかないのか、掴もうとして、ぐちゃぐちゃつぶしてしまうのだろう。まだ言葉を使えないくらいの年齢。そんな子どもが、豆腐にもっとも近い、という。豆腐との距離が近い、というよりも、まさに豆腐のようである、ということだろう。力の調節のできないものに、いともたやすく潰されてしまう、子どもの危うさを見出している。
 しかしその「調節のできないもの」というのも、同時に、子どもである。もちろん子ども同士の握りつぶしあいっこ、というものではない。子どもの危うさと同時に、そういう風に潰してしまう側の危うさを自分自身に見ているのだ。あるいは、周囲の大人に。それはまさに子どもである、と。

・煙草くさき国語教師が言うときに明日という語は最もかなし
     寺山修司『空には本』

 明日があるとか、未来には無限の可能性があるとか言う先生の姿そのものが、生徒からすれば<明日>に触れられる身近な存在の1つである。明日の積み重ねが、いま眼前に明日を説く教師の姿そのものなのだ。そう思えばこそ、煙草くさい教師の姿に、明日という言葉の無意味さや明日を生きるということへの絶望感を抱くのだろう。「あー俺たちもこうなるのか」「お前が明日を語るなよ」と。
 ここで三句「言うときに」に注目すれば、明日への淡い期待が伺える。明日というものがそもそもかなしいわけではないのだと。「本来は」もっと明るいものだと。それを汚してくれるなと。私たちには、希望の明日が訪れるのだ、と。将来に対する漠然とした不安、自由でありたい一方で責任はとりたくないという身勝手さ、どうにかしてほしいというささやかな期待、どうにでもなれるんだという希望、そういういくつかのものが綯い交ぜになって、明日という語は最もかなしいのだ。

・一皿の料理に添へて水といふもつとも親しき飲み物を置く
     安立スハル『安立スハル全歌集』

 さびしい時間に、少しの安心感をもたらすもの。それはどこかで通じているような親しさかもしれない。そういう危うさの中で、日々の生活が積み重なってゆく。気づけば、「明日」と呼んでいた時間を歩んでいる。「豆腐屋のおじさん」と「豆腐」の距離。「豆腐」と「母」と「子」の距離。「教師」と「生徒」の距離。その関係性の中にある親しさ、それを少しの拠り所にしながら、生きているのかもしれない。
 一皿の料理である。ご飯があって、お吸い物があって、おかずがあって、……というような光景ではない。一皿なのだ。そこに水を置く。その水を「もつとも親しき飲み物」と言っている。距離が近いことが親しさではない、と思う。水と我々の距離感ほどの親しさ。

 食事に出される水の何でもなさを何とも思っていなかった幼少の頃、そのことで叱られたことがある。毎日があること、食卓にコップ1杯の水があること、その「いつも通り」の何でもなさに寄りかかっていることの、かなしさが、時々こみあげてくる。

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。歌集に『温泉』(2018年)がある。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はkyushu.sc.m.yamasho@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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