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5月の連作

2020年5月の諸誌紙から、気になる連作をピックアップします。(順不同)

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篠弘「冬のいなづま」28首(角川「短歌」5月号)
〈個室へと朝より移りたりしよりここに旅立つことも思ひつ〉〈手術せし痕いたみしがこの昼より添削をする心をうつす〉など。自然な呼吸のなかに措辞のバリエーションがあって読み応えがある。

小池光「ことしの春」28首(角川「短歌」5月号)
一首目から〈暗黒疾走の「はやぶさ」にありて岩波新書『独ソ戦』をばむさぼり読みつ〉と仕掛けにくる。一首一首のたくらみのおもしろさ。

前田康子「桃いろやさしき」10首(角川「短歌」5月号)
〈十五銭は銃後の護りとも言われると解説あればみな感心す〉の「十五銭は銃後の護り」のような情報が並び、一連の印象をつくっている。

花山周子「正常 二〇一九年十月〜十二月」24首(「現代短歌」5月号)
〈ビリーヤードの二百万円のキュー並ぶ 想像のほかのお金の使い道〉〈ふいに寝つける娘の顔はふくらんで幼子となる静かな時間〉、核心にいきなりはいりこむ視線その文体。

小島ゆかり「丘」20首(「歌壇」5月号)
肉感のある比喩が、一連の光景を歪にえがく。〈曇り日はまなぶた重し古びたる眼球に似る春の太陽〉。

屋良健一郎「灯下を帰る」10首(「短歌往来」5月号)
一連にごくしぜんな流れがあって読ませる。〈薄れゆく草のにおいを妻は言うおさなは転ぶことなく駆けて〉。

棚木恒寿「大試験」10首(「短歌往来」5月号)
〈ある人はウイルスに「全力で」「ますます加速して」「まさに今」取り組むと言う〉。歯切れのある一連。

前田康子「伝染(うつ)る」7首(「短歌研究」5月号)
同じ作者の先の連作と似たつくり。〈人間を集め処分することはできぬ十三万頭の豚みたいに〉。

本田一弘「三月一日」7首(「短歌研究」5月号)
シンプルだが、透き通るような口調がある。卒業式の一連、〈マスクする子らもマスクをせぬ子らも名を呼ばるれば竹のごと立つ〉。

藤島秀憲「はずしに」7首(「短歌研究」5月号)
一首目〈あるべきが一枚もなき棚を見てしずかな町を帰る日の暮れ〉、マスクのことだが、この抑制がいい。一連全体にも言えることだ。

平岡直子「投稿」7首(「短歌研究」5月号)
〈松の実が乗っているピザとかはどう 友だちは外国で傘のよう〉〈つるつるの折り込みチラシが反射してわたしは太平洋より小さい〉〈今はもう使われてない鐘楼のように手ばかり洗っているよ〉。一首一首の粒のたしかさをおもった。

日高堯子「春猫」7首(「短歌研究」5月号)
〈水仙の葉叢をとほりぬけながらふと花を嗅ぐ春のとら猫〉。春の猫がぽつぽつあって、一連をおしすすめる。

花山周子「うちにとっては」7首(「短歌研究」5月号)
この題そのものに作家性をみる。〈突然の休校となり学校の全ての荷物子は背負って来つ〉〈沖縄に行く計画が持ち上がりわれがぽしゃらせた元気がなくて〉。

花山多佳子「天狗笑ひ」7首(「短歌研究」5月号)
〈何時ですか わが自転車を止めて問ふ少年四人 春のまひるま〉。学校が突然休みになってこんな時間がうまれた。

野田光介「どんがら」7首(「短歌研究」5月号)
〈卓上のとろろ昆布を風呂あがりの二本の指につまみて食えり〉、「二本の指に」のつまみ食い感。一首おおらかにして仔細なところがある。

武田穂佳「ツインソウル」7首(「短歌研究」5月号)
〈ハートの電飾見つけただけで恥ずかしい君とふたりで歩いていたら〉〈会わなくていいもう喋らなくていいただ山があるようにいつでも〉。ワンテーマでひといき、という感じ。密度がある。

染野太朗「味噌を作る」7首(「短歌研究」5月号)
はじめてということ、今の感情と光景があわさるようできらめきがあった。〈ひと晩をみづに浸ければまんまるの大豆が楕円 三月の朝〉〈百均で買つた小型のマッシャーの存外に良し汗してつぶす〉。

島田修三「忘れたいのに」7首(「短歌研究」5月号)
〈エゾマツの幹ずぶときが寒のきはみ縦ざまに裂け叫喚するといふ〉にはじまるごつめの一連。

さいとうなおこ「水菜の束」7首(「短歌研究」5月号)
挽歌一連。〈泣き顔を見たくはないと言うだろうゆうべ水菜の束のつめたさ〉〈夫の椅子傾けぼんやり見ておりぬ逆光の部屋動くものなし〉。

佐佐木幸綱「一茶の孤独」7首(「短歌研究」5月号)
一首目〈蚊や蚤や蠅が飛ぶ句の俳人は五月五日の信濃の生まれ〉の「俳人」は三首目でやっと「一茶」と名前が出てくる。連作ならではとおもう。

小島なお「早送り」7首(「短歌研究」5月号)
〈自動ドアに映る自分が真ふたつに割れて居合刀提げて入る〉〈なぞりつつコップの縁に円を描く円は終わらず戦争思う〉。結末にむかいながら唐突にイメージがかたまる。

小池光「ダウラギリ」7首(「短歌研究」5月号)
下の句でふっと浮上する、あるいはひねりつぶす、そういう一首のあり方に注目する。〈「掃部守」はかもんのかみと読むことを父に習ひぬ春くれば花〉〈「色」の字は男女交合のさまを象形す淡雪ふりて消えゆきしかな〉。

工藤吉生「乳首」7首(「短歌研究」5月号)
一首の核がむきだしになって立っている。〈タイトルを「乳首」とつけて書き込んだ目立ちたがりの過去はずかしい〉〈音楽がなぜ好きなのか考えて暗い呪術に思いは及ぶ〉。パズルが完成したような爽快感がにじむ。

大島史洋「すすり泣き」7首(「短歌研究」5月号)
どこか親近感のようなものをおぼえつつ読んだ。〈サルスベリ墓のかたえに咲きおれば寄りゆきて座る墓と並びて〉。ひとつことを言って、そこから遠くへいかずもうすこし押すような味わい。

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ほかに5月に読んだ連作から。

小山加悦子「弟よ」15首(「玉ゆら」vol.68、2020.4)
大きな時間軸のなかで、こまかな場面が点々とうたわれる。〈釣り好きの弟の捌く鯵のさしみ夏バテの父の箸すすみたり〉。

北村早紀「白の跳躍」20首(「遠泳」、2019.1)
〈人並みにやんちゃもしたさ、それほどでもないけど言えば馴染めるかなあ〉など。一連をとおしてひとつ心情がうたわれる。

橋爪志保「息の根を呼びとめて」30首(「のど笛」、2020.1)
これも一本筋のとおった一連。〈後ろ前に着たらくるしい首元のやわらかければいいのにな死が〉。

平出奔「その時代のことはあまり知らない」30首(「のど笛」、2020.1)
一首一首がスピーディーで読まされる。〈王将で学歴のことを話してて酢豚は2じゃ割れないと思った〉〈知っているネタで若干追い越して笑っていたらオチが違った〉。
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短歌研究2020年5月号

280人、作品特集の号をひといきに読んだ。そうでないと読み終えられないような気がして。巻頭の馬場さん以外は7首連作。レイアウトの都合で厳密ではないが、おおむね五十音順。これが全体を通して読むときに、いいように作用しているかどうかはちょっと考えさせられた。世代じゃないけれど、ある程度、共有している空気感や、文体や、そういうものがあるなかで読み比べるのと、そうじゃないなかで読み比べるのとでは、浮かび上がってくるものがちがってくるんじゃないか、みたいなことをおもった。

7首というのは短歌研究では定番の歌数で、レイアウトもこれまでを踏襲した感じ。むずかしい歌数だなあ、とおもう。

たとえば10首こえてくると傷が目立ちにくくなるが、7首だと連作全体への影響がわりと大きい。一方で、いい歌が4首くらいあっても連作としての印象がぼんやりしている場合もあって、これが5首とか3首だとうまくいくのになあ、とおもうことがある。

作風に対してどうか、ということもある。もっと歌数があったほうが、この文体、この歌柄がいきるなあ、ということがある。7首ではものたりないが、15首くらいになってくると凄みが出てくるというか。あるいはこの話、もうちょっと枝葉のところがあると臨場感が出てくるんじゃないか、とか。

7首のなかにテーマやモチーフがわりあいわかりやすい形で二つ三つあると、ぼそぼそした感じになる。いっこのテーマというか話題でけでおしとおすには、ちょっとだけ多い。

くわしいことはまた5月の連作に書きます。

4月の連作

2020年4月の諸誌紙から、気になる連作をピックアップします。(順不同)

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松本典子「ひとも街もこゑも」10首(「短歌往来」4月号)
特集「天変地異を詠む」から、昨年の台風の現場をうたった一連。〈にぎりかへす手のある老いからひとり抜けふたり抜け避難すらできぬ母〉、こういうときでも順番というものがどうしてもうまれてしまう。「長引く停電で器械による搾乳も加工もできず」という詞書のついた〈しぼつては棄てしぼつては白き乳を棄てそれでも救へなかつた牛たち〉もいかにもいたましい。平時というのが、さまざまな絡み合いとバランスのうえに成り立っているのだということがよくわかる。力のこもった文体は作者のものだが、現場をつたえてなまなましい一連である。


金澤和剛「一歳児」8首(「短歌往来」4月号)
なんとも不思議な作品群で、気をひかれてひといきに読んだ。二首目〈紙おむつ替えるときふと手と脚の数をかぞえる 四の倍数〉、「手と脚の数をかぞえる」時点でだいぶヤバいのに、そこから「四の倍数」にたどりつくのでいよいよ本物という感じがする。ふつう「ふと」は悪手とされることがおおいが、ここでは「ふと」にこそ真実みがあって、のけぞってしまう。〈ニュース速報のテロップ見送ってすまし顔でお風呂に入りましょう〉、この唐突のいざないにおののく。


田村元「ポトスライム」20首(「短歌研究」4月号)
一首目〈朝九時のオフィスグリコの百円を誰かが払ひ「ペイペイ」と鳴る〉につかまれる。「ペイペイ」と鳴る、ってまるで鳥みたいだ。鳥だったら「鳴く」だから、当然「鳴る」のは機器なのだが、ここに「ペイペイ」との距離感があらわれているようで面白い。デフォルメの面白さである。〈かばんの底に米つぶ一つ付いてをり四十二歳のわれの米つぶ〉も、「四十二歳のわれの」というピックアップの仕方に妙味がある。


花山周子「長生き 二〇二〇年一月〜二月」20首(「短歌研究」4月号)
花山さんはあるところから、独特の破調文体のようなものを得ていったような感じがあり、そこにごりごりと力のある文語がきしむように重なり、ある説得力がうまれているようにおもう。〈花山さん長生きしそうと言われしこと時々思い出す嫌だったので〉〈わが娘言いたくないこと言わずおり言えばいいのにとわれは思うも〉、いわゆる口語文語のミックスとはまるでおもえない。〈やりたくなさが全面的な夕暮れの手をついて机から立ち上がる〉、〈真顔〉ということをおもう。


篠弘「汗のたなぞこ」20首(「短歌研究」4月号)
一首目でまず「心不全」と話題をさしだされる。二首目〈朝ごとに己が体重計りきて減りつづくれば竦(すく)む思ひす〉の「竦む思ひす」にひやっとする。音韻的な効果もあるだろう。息の抜けるような弱さがある。〈いくたびも目薬を差し避けがたき終末としていかにしならむ〉〈つづけざまに老人逝けりくちびるの渇きやすかる寒明けの日々〉など、自然なうたいくちのなかに、生気のうすさのようなものがただよっている。


島田幸典「碑の蟻」30首(「短歌研究」4月号)
飛行機で電車でバスで、どこかへ出掛けている連作のおおい作者である。一首目〈岡山に聴きはじめたる「合唱」の人間の声は広島に聞く〉、地名の把握の仕方などから新幹線かとおもいながら読んだ。後半には飛行機も出てくる。道中、あるいはいった先での点々とした光景が精緻な文体でえがかれる。〈炒飯の残る一山に酢を回しレンゲに崩し搔きこみにけり〉の「酢を回し」の周到、〈機窓より見おろす阿蘇のゴルフ場立木に付きてうすき影伸ぶ〉の「機窓」「立木」の正確など。


山木礼子「朝」30首(「短歌研究」4月号)
〈泣きやまぬ子を抱いたまま階段の段を転がりおちてやらうか〉〈腫れた心がときをり汁を流すだろ 泣いて気がすむなら泣きなさい〉。そのときそのとき突発的に、あるいはなにか蓄積されながら、「子」と「わたし」が投げされるようにこの世に存在している。連載、連作のながれのなかで後ろから二首目〈とても年をとつた日の朝 ふたり子もすつかり年をとつてる朝に〉が、強烈な臨場感を出している。「とても年をとつた」のどこかつたない印象は、それがイメージできないくらい遠くのことに見えていることを示唆している。


大口玲子「自由」28首(角川「短歌」4月号)
昨年の「椿の夜に」にひきつづき、今年もこの28首連作にたちどまる。〈図書室登校ながく続けば「お母さんの給食も出せます」と言はれたり〉、そういうものなのか、とおどろきつつ読む。「学校」と「息子」、そのあいだの「わたし」をめぐる一連である。〈牧水賞二次会に来て「こち亀」を読み続けゐる息子を憎む〉。『ザベリオ』からさらに踏み込んだところで息子への眼差しがある。ひとつひとつの場面が鮮明である。


大松達知「毛茸」10首(角川「短歌」4月号)
語り口おおらかに、こまかなところをぽつぽつとうたう一連。うたが重なるごとに全体がわかっていく、というとどの連作もそうなのだが、この一連においてはまさにそのことを体感しながら読んだ。〈憂いことを離れて憂さは残りたり声の壊れる午後の教室〉、「憂い」と「憂さ」の差異をおもう。〈ふるさとはさつまいもにも薩摩にもあらねど飲めり飲めばふるさと〉、「さつまいも」「薩摩」の反復が、遠さゆえの「飲めば」の「ば」の強さをもたらすようだ。


染野太朗「稼ぎがよい」12首(角川「短歌」4月号)
一首の形に熱量がおよぶような一連である。〈きみをまへにことばはただの声になる大阪市在住四十二歳のこゑ〉、意味あっての「ことば」だが、そうではない、「ただの声」、動物的といってもちがう、「こゑ」になる。〈からめあふほどに引きのばされてゆく夜、冬の夜、怖れと舌と〉、直裁な表現が、一首のなかでじっさいからまりあいながら現場を伝えてきてとりこまれる。〈「美男子と煙草」を読めばかなしもよ「恐れいります。」も「たまらねえ。」も〉の切なさ。


野田光介「白いきのこ」12首(「現代短歌新聞」4月号)
自在な引用やある軽さに作風がある。たとえば一首目〈たくさんの白いきのこがどってこどってこ宮沢賢治をキンドルで読む〉、三句までが「どんぐりと山猫」をおもわせて宮沢賢治の序詞になっている。五首目〈向い風吹く野の道に妻と吾と帽子おさえてつくつく歩む〉、「帽子おさえて」に臨場感がある。さらに「つくつく」が心情やキャラクターをおもわせる。


吉川宏志「みなそこ、水面」15首(「うた新聞」4月号)
なにか示唆的な〈みなそこに泥さむざむと沈めども水面(みなも)は春のひかりをはじく〉という一首から始まる。「みなそこ」と「水面」との対比である。国敗れて山河あり、ではないけれど、一連で展開されるのは新型コロナウイルスをめぐる状況と、いまのこの春という季節についてである。大きなうたと小さなうたがいりじまじって印象的な一連である。

3月の連作

2020年3月の諸誌紙から、気になる連作をピックアップします。(順不同)

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山中律雄「甲乙」7首(角川「短歌」3月号)
一首目〈平面に見ゆる広場の幾ところ雨残れるは起伏あるらし〉からちょっと、おっとなる。平面に見えるけれど、ところどころ雨が残っているということは、そこに起伏があるということだろう、といううた。視点と、その述べあらわし方にたちどまる。〈泥に泥かさねるごとき倦怠に今朝も朝よりうつしみ重し〉の比喩に納得する。「今朝も朝より」の「朝」の重なり、「泥に泥」のかさなりがスライドするようで、音韻的たのしみもある。作風のようなものを全体に感じられる一連であった。


田村元「炭酸泉」5首(「うた新聞」3月号)
田村さんもぶれずに、というべきか、いくつかの話題をながいこと突き詰めつづけている歌人である。その〈徹底〉がおもしろさへ転換しているようにおもう。〈「ほ」と打てばホッピーと出る変換の予測の先にホノルルはあり〉、みずからにもっとも近いもの「ホッピー」、そして遠いものとしての「ホノルル」。近いところと遠いところの接合はある定石だが、ぶれずに「ホッピー」であるところや、「ホッピー」「ホノルル」の語感のたのしさなど、作風というか歌柄というか、そういうものを感じさせる。


岡井隆「唄とノルマ」7首(「未来」3月号)
岡井さんの月詠を1月号から読んでいて、どれもたのしいのだが、親近感もあってこの3月号の作品を挙げる。一首目〈室内のフロア歩きのノルマでは「箱根の山は」を唄ひつつ行く〉、「歩きのノルマ」が課せられているようで、「箱根の山は」うたいつつ、それをこなしている様子である。からだのためだろう。二首目以降、この話題がころがりころがりして、その奔放な感じがいかにも岡井さんらしい。それが最後の七首目でかえってくる、という構成。


早川晃央「お別れを待つ」12首(「COCOON」15号、2020.3)
挽歌一連。〈九五歳の死因の第三位・老衰は祖母の息をとめたり〉、死をどのように理解し解釈するか、というところに関係性やおもいがにじむ。おのずから、ではなく、能動態でかかれているところにたちどまった。〈十五年前の一五の夏休み祖母が誘ってくれた「コスモス」〉、具体的な数字とさっぱりとした語り口が、「コスモス」結社内同人誌である「COCOON」の誌面ではいっそう迫ってくる。〈寒いねと言い出したとき「お別れ」の順番が来て経が始まる〉、タイミングはいつもむずかしいし、いきなりやってくる。ディテールに真実がこもるような一連だった。

2月の連作

2020年2月の諸誌紙から、気になる連作をピックアップします。(順不同)

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池田はるみ「初の子年を」33首(「短歌往来」2月号)
前半、「ばあば」詠とはちがった側面がおもてにたった一連で、文体はわりあいさっぱりきっぱりしている。その中に〈寝る前に「もうしんどい」とわが言はぬしんどいはまだ少し先だよ〉〈遠き日のこのマンションはおつとりと妻が守れる空間だつたよ〉といったうたがさしはさまれ、この「よ」の口調に「ばあば」がちらっとうつる。語りかけのうただが、一連に物悲しさをあたえるようで、後半の「ばあば」詠への誘導にもなっているようだ。


大平千賀「ローリエ」5首(「うた新聞」2月号)
ささやかながら、一首一首にうまみがあって、引き締まった連作とおもう。〈浴室の窓を覗いて淡雪がすみずみに落ちてゆくのが見える〉、まだ雪の落ちていないところを埋めるように「すみずみに」まで降りおちる淡雪。〈夜の庭にローリエの葉を摘みとって涼しく香る手のひらとなる〉の「なる」。どのうたも体温のようなものを共有していて、それが一連をゆるやかにひとまとまりのものにしている。

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ほかに2月に読んだ連作から。

小島なお「蟹剥き」12首(「COCOON」3号、2017.3)
四首ひとかたまりの話題が三つ置かれるような構成。二つめ、三つめにはそれぞれ「糸魚川の大火事」「茂吉のふるさと」と詞書がつく。全体として無理にひとつらなりになるようにしている、というふうではなく、だからといってまったくばらばら、というふうでもないのがいい。どのパートにも印象的なうたがあった。


松井恵子「黒蜜」12首(「COCOON」7号、2018.3)
前半五首、〈妊娠の分かつた日から夕焼けの光にチェロの音が混ざつた〉からはじまり、妊娠から出産までという気持ちになりながら読む。ところが六首目、〈音読の声に広がるひらがなの花びら揺れてゐる子供部屋〉とあって、時間の感覚をすこし調整する。二人目とか三人目の子どもを妊娠しているのか、あるいはもっと大きな時間幅で一人の子の妊娠を振り返りつつ今にかえってくる連作なのか。あまり気にせずに読みとおせたのは、一連がストーリー展開によらないからだとおもう。うたとうたの、なにか緊張感のようなものに統一感があった。


牛尾今日子「旅日記拾遺」10首(「八雁」2019年11月号)
一首目の詞書に「ウズベキスタン」とあって、これが全体におよぶのだとおもう。その土地の空気感と、そこにはいりこんでしまった「わたし」が、その体感がえがかれる。〈どうしてか見てたらわかる日本から来た女の子わたしのほうも〉、ちょっとした挙動や、その人のまとっている気のようなものから、「わかる」し、同じようにむこうにもわかられる。〈みぎひだりに尻尾を振って歩いている牛を抜かして子牛も抜かす〉、四コマ漫画のようなたのしさがある。

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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