2020/10/19
9月の連作
2020年9月の諸誌紙から、気になる連作をピックアップします。(順不同)*
大松達知「Tokyo Blue」12首(「現代短歌」9月号)
「窓」の特集。「窓」のうたがさまざま並んで、「窓」とは何か、思考をうながすようなところがある。四首目〈「すいませーん、上からですいませんけども、そこにお願いします、すいません」〉は窓から身を乗り出して階下のひとに声をかける。十首目〈にんげんは〈窓〉を通らず 教室に窓から入る中学生あり〉は学校の風景。
永田紅「Zoomと天窓」12首(「現代短歌」9月号)
Zoomやらなんやらを使うようになって、それからの日々をうたう。特集のテーマは「窓」。四首目〈窓枠が並ぶがごとし顔顔顔 隣の部屋へはみ出せぬまま〉、七首目〈ミーティング終わればさっさといなくなる窓は閉じるというより消える〉など。八首目〈四月には皆いきいきと退出の際に手などを振りておりしが〉に、ああそうだったなあ、とおもう。こういうところから、「天窓」へうつっていく。
斉藤斎藤「エッセンシャル・ワーク(3)」30首(「短歌研究」9月号)
「V 4月第2週/6月第4週(承前)」「VI 4月7日(火)」を収める。「作品連載三十首」とあるが、数えてみると二十七首という感じがする。九首目〈国民に寄り添うあまり日本語がねじれる陛下のそういうところ〉は、「私たち」という表現をめぐる考察をうけての一首。総理の「私」と天皇の「私たち」。「ひとりびとりの命に、まっすぐに向き合い過ぎた」とき、二十三首目〈一度きりのぼくの人生がこいつらに吸い取られてく気がするだろう〉は植松死刑囚をうたう。
佐伯裕子「心」5首(「短歌往来」9月号)
三首目〈終わりなく答え欲しがる夏休みていねいに応えてあげればよかった〉、こういう後悔がずっとついてまわる。「心といえる手に余るもの」をはぐくみ、引きこもりとなった息子。その息子が外へ出て働くようになってどれくらい時間が経っただろうか。大きな時間をふくんだ一連。
前田康子「声音」5首(「短歌往来」9月号)
「二人子」の様子がそれぞれ描かれている。二首目〈面接より戻りて眠りいる夕の足指にまだ力入れしまま〉は娘だろう。面接のときそのままに「まだ力入れしまま」なのが切ない。四首目〈東京には来るなのメール 電話ならどんな声音で子は言っただろう〉はすでに家を出ている息子のほう。「東京の新感染者また100人を越える」という詞書が付く。子は子でおもうことあり、親は親でおもうことあり。
岩内敏行「学校」5首(「短歌往来」9月号)
休校がとけて、学校がはじまるというときをうたう。三首目〈一日がふたたびながくなるだろう あねといもうと二人の寝息〉におもいがこもる。かつて自分が学校に通っていた時間もかさなって映る。休校によって、一日の時間の流れがかわってしまった「二人」の、きょうの「寝息」、明日からの「寝息」。
篠弘「生くるとは」20首(「歌壇」9月号)
四首目〈山鳩は暗きうちより鳴きつづけ来客を待つ日は冴え返る〉の「冴え返る」のような妙にハイテンションなところがいい。八首目〈シベリアに抑留されしは五八万人ロシアの患者はその数越えむ〉はこういう比較になってくるのだと息を呑む。連載の終わった「戦争と歌人」が本になるようだ。十五首目〈まばたきの少なきわれに眼科医は遠くを見よと立ち上がりたる〉も結句の展開が読ませる。
青木昭子「風の伯爵夫人」20首(「歌壇」9月号)
語りかけるような文体に力がある。六首目〈柔かく煮えて香にたつ春牛蒡さうか五年か、がんばつたなあ〉の五年は夫亡き後の五年であると、ひとつ前のうたからわかる。十四首目〈マンゴーのむんむん匂ふ滴りを頬ばる時の集中力はや〉など、粘りづよいことばの連なりが印象的だった。