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9月の連作

2020年9月の諸誌紙から、気になる連作をピックアップします。(順不同)

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大松達知「Tokyo Blue」12首(「現代短歌」9月号)
「窓」の特集。「窓」のうたがさまざま並んで、「窓」とは何か、思考をうながすようなところがある。四首目〈「すいませーん、上からですいませんけども、そこにお願いします、すいません」〉は窓から身を乗り出して階下のひとに声をかける。十首目〈にんげんは〈窓〉を通らず 教室に窓から入る中学生あり〉は学校の風景。

永田紅「Zoomと天窓」12首(「現代短歌」9月号)
Zoomやらなんやらを使うようになって、それからの日々をうたう。特集のテーマは「窓」。四首目〈窓枠が並ぶがごとし顔顔顔 隣の部屋へはみ出せぬまま〉、七首目〈ミーティング終わればさっさといなくなる窓は閉じるというより消える〉など。八首目〈四月には皆いきいきと退出の際に手などを振りておりしが〉に、ああそうだったなあ、とおもう。こういうところから、「天窓」へうつっていく。

斉藤斎藤「エッセンシャル・ワーク(3)」30首(「短歌研究」9月号)
「V 4月第2週/6月第4週(承前)」「VI 4月7日(火)」を収める。「作品連載三十首」とあるが、数えてみると二十七首という感じがする。九首目〈国民に寄り添うあまり日本語がねじれる陛下のそういうところ〉は、「私たち」という表現をめぐる考察をうけての一首。総理の「私」と天皇の「私たち」。「ひとりびとりの命に、まっすぐに向き合い過ぎた」とき、二十三首目〈一度きりのぼくの人生がこいつらに吸い取られてく気がするだろう〉は植松死刑囚をうたう。

佐伯裕子「心」5首(「短歌往来」9月号)
三首目〈終わりなく答え欲しがる夏休みていねいに応えてあげればよかった〉、こういう後悔がずっとついてまわる。「心といえる手に余るもの」をはぐくみ、引きこもりとなった息子。その息子が外へ出て働くようになってどれくらい時間が経っただろうか。大きな時間をふくんだ一連。

前田康子「声音」5首(「短歌往来」9月号)
「二人子」の様子がそれぞれ描かれている。二首目〈面接より戻りて眠りいる夕の足指にまだ力入れしまま〉は娘だろう。面接のときそのままに「まだ力入れしまま」なのが切ない。四首目〈東京には来るなのメール 電話ならどんな声音で子は言っただろう〉はすでに家を出ている息子のほう。「東京の新感染者また100人を越える」という詞書が付く。子は子でおもうことあり、親は親でおもうことあり。

岩内敏行「学校」5首(「短歌往来」9月号)
休校がとけて、学校がはじまるというときをうたう。三首目〈一日がふたたびながくなるだろう あねといもうと二人の寝息〉におもいがこもる。かつて自分が学校に通っていた時間もかさなって映る。休校によって、一日の時間の流れがかわってしまった「二人」の、きょうの「寝息」、明日からの「寝息」。

篠弘「生くるとは」20首(「歌壇」9月号)
四首目〈山鳩は暗きうちより鳴きつづけ来客を待つ日は冴え返る〉の「冴え返る」のような妙にハイテンションなところがいい。八首目〈シベリアに抑留されしは五八万人ロシアの患者はその数越えむ〉はこういう比較になってくるのだと息を呑む。連載の終わった「戦争と歌人」が本になるようだ。十五首目〈まばたきの少なきわれに眼科医は遠くを見よと立ち上がりたる〉も結句の展開が読ませる。

青木昭子「風の伯爵夫人」20首(「歌壇」9月号)
語りかけるような文体に力がある。六首目〈柔かく煮えて香にたつ春牛蒡さうか五年か、がんばつたなあ〉の五年は夫亡き後の五年であると、ひとつ前のうたからわかる。十四首目〈マンゴーのむんむん匂ふ滴りを頬ばる時の集中力はや〉など、粘りづよいことばの連なりが印象的だった。

8月の連作

2020年8月の諸誌紙から、気になる連作をピックアップします。(順不同)

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黒﨑聡美「得意げ」12首(「うた新聞」8月号)
〈木曜に来たからモクという猫のおなか撫でていたむかしの夏に〉という一首ではじまる。四句に生のことばが放り出されたかとおもえば、結句では「むかしの夏に」という書きことばの緊張があって、その緩急に引き込まれる。一首にある感じ方のおもしろさ、書き方の独特なところが、一連にゆるやかなまとまりを与えているようだ。

志野暁子「石」3首(「うた新聞」8月号)
昭和ひとけた生まれの特集から。「石」とは「百度石」のことで、はじめ二首にうたわれる。〈草陰にひつそりとある百度石識る人もなし雪に濡れつつ〉、「ひつそりと」したうたい口が印象的な一連三首である。大きな形ではなく、「識る人もな」いもの・ことを静かにうたうところに、圧してくるものがある。

田村元「ビール券」5首(「現代短歌新聞」8月号)
このところの生活をうたった小品。〈叔母の字でメモが添へられ手作りの〈オバノマスク〉が三枚届く〉など、生活の変化をどこかたのしむ姿に特徴があると言えようか。メモ書きの〈オバノマスク〉は「叔母」さんのユーモアだろう。二枚ではなく「三枚」というのも張り合う感じがあってたのしい。

古谷円「大夕焼け」5首(「現代短歌新聞」8月号)
「父母のいない実家」をめぐる一連五首。〈青空を注ぎにゆこうか父母のいない実家のくらやみを開け〉、もう誰も住んでいないのである。大きなうたい起こしにまず掴まれる。その「父母のいない実家」であるが、「もういらぬ」のであり、しかし「感情やどす」のであり、けれども「生家ともらず」なのである。大きうねりある一連。

睦月都「王さまと政治家」10首(角川「短歌」8月号)
二首目〈春の日をこもりてをれば机がだんだんやはらかくなりて卵も割れぬ〉といったはみ出していく文体にいくぶんおどろきながら、連作の終盤へかけての盛り上がりがこころに残った一連。〈星からも遠い日は肉をもむやうな肉筆で手紙書きつけてゐたり〉の「肉をもむやうな」は直喩だが、隠喩とともに緊張感のあるのにつかまれる。

田村元「鶯色」13首(「短歌往来」8月号)
やはりこのところの生活をうたった一連で、ひとりの人のこころの動き、行動の記録、という感じのささやかなうたの積み重ねが、忘れかかっていた日々のひとつひとつを思い起こさせる。〈町内のドラッグストアに満ち足りぬこころはバスで駅前に出る〉、町内でことたりるかもしれないが、そういう日々がかさなれば、「満ち足りぬ」ということにもなろう。「駅前に出る」べきかいなか、を外部から判断されるいわれはないのである。

鈴木ちはね「tokyo2020」20首(「ねむらない樹」vol.5、2020.8)
結句にむかって絞られていく、という感じのない一首のあり方にたちどまりつつ読んだ。〈それにしても大塚愛はどんな日を「泣き泣きの一日」と思ったのだろう〉〈公園でキャッチボールがきれいだね どんどん距離が広がっていく〉〈公園の滝は工業用水を循環させている夏の滝〉など、体や思考が世界に滲みでていくような印象がある。

斉藤斎藤「エッセンシャル・ワーク(2)」20首(「歌壇」8月号)
つづきもので、今作は「IV 6月第4週」と「V 4月第2週/6月第4週」からなる。Vでいきなり紙面がまっくろになっておどろいたが、引用がゴシック体で書かれているようだ。うたも引用だらけになっていく。それがさらに後ろのほうにいくと、詞書と短歌のポイントまで逆転しながら、なにかおどろおどろしい感じになっていく。

花山周子「五月九日から六月七日まで」30首(「歌壇」8月号)
日付のあるうた。五月十日(日)、〈腹這いで生理痛をやり過ごす地面のような午後の時の間〉、「腹這い」も「地面のような」も「時の間」もすごくてくらくらする。これが五月二十日(水)には〈腹這いで漫画を読んでいる娘が一年ごとに巨大化しおり〉につながっていく。絞り切る、という感じの迫力がとぎれることなく続く一連。

7月の連作

2020年7月の諸誌紙から、気になる連作をピックアップします。(順不同)

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武田穂佳「煙の生活」30首(「短歌研究」7月号)
はじめから終わりまで息が途切れないような迫り方があった。一首が立っているというよりも、一首にこもるカロリーが大きい。〈一年間生きて、また春が来ることかなしむように菜の花が立つ〉〈死ぬことの意味をしつこく聞いていま殺すと怒鳴られた台所〉。生きることをめぐる一連であり、「子ども」だったころの記憶や感情がいりまじるようにして展開していく。

小池光「近づく夏」30首(「短歌研究」7月号)
日々抄、といったおもむきの一連で、そこに「近づく夏」というふうに、そのままのタイトルが添う。〈牛飼ひを廃(や)めたる農家にのこされし暗き牛舎をのぞき見るかも〉〈林間の道一瞬にみえて消ゆ日傘のひとか歩みをりたり〉。固有名詞をふんだんに使いながら、また、さまざま興味をうつしながら、「近づく夏」の気配がえがかれる。

山階基「せーので」30首(「短歌研究」7月号)
〈もらったのぜんぶ捨てたというきみのナイスポーズの写真を消さず〉の「きみ」をはなれながら、〈灯の消えた神社の鳥居くぐるとき忘れるように手を握られる〉の「手」や〈心臓は胸ごしにある耳に耳貸しあうような打ち明け話〉の「心臓」や「胸」や「耳」の「あなた」へうつりゆく時間をえがく。消すもの・消さないものの輪郭の濃さから、体感のような混濁としたものへのうつろいが印象的。

佐佐木幸綱「『佐信書簡』(佐佐木信綱・新村出書簡集)」21首(「短歌往来」7月号)
一首目〈『佐新書簡』は三百七十三ページ つくづく郵便の時代だったと思う〉は一連のはじまりにあたって概括的な一首であるが、「郵便の時代」という把握が、葉書手紙の往来その厚みを呼びおこして一連世界へいざなう。「三百七十三ページ」という具体もそうだが、それよりもむしろ、こういう簡単でありながら大きなことばでうたっていって、そこに説得力がうまれるところに佐佐木幸綱のうたがあるようにおもう。

三枝昂之「常なき日々の——多摩丘陵2020年春」30首(角川「短歌」7月号)
迢空賞受賞第一作。こちらも日々抄、というおもむきであるが、みずから対象に向かっていくというよりも、もうすこしおおらかな雰囲気がただよう。〈傍らに人がいることコーヒーが香ること机上がわれを待つこと〉〈うぐいすが競い合ってる緋鯉真鯉が喜んでいる風が応えている〉は終盤の二首。リフレインがかならずしもここちよさのほうばかりになびかず、緊張感をたもっている。  ※「昂」の左下部は「工」です。

岸並千珠子「あやめ」7首(角川「短歌」7月号)
〈父はいま管につながれ動きをり夜風になびく浅根のあやめ〉、「管」と「浅根」が「父」と「あやめ」をしぜんにとりむすぶ。〈もう会はぬひとりと父を消し去りてつけるマスクの裏のゆふぐれ〉、結句で「裏のゆふぐれ」と展開していくところに立ち止まった。〈鏡のなかに自らの髪切りてをり床に広がるわたしの範囲〉。父の死それそのものよりもっと大きなところでうたわれた挽歌一連とうつる。

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ほかに7月に読んだ連作から。

松村正直「うれしいこぶた」15首(「パンの耳」第3号、2020.6)
たとえば〈ひとの心の奥は見えねど寄り添いて地蔵の横に水仙が咲く〉という一首は、「寄り添う」ということのひとつのあり方を示しつつ、そこに「ひとの心の奥は見えねど」がかさなって映ることで、一首によい曖昧さがのこっているようにおもう。こういう一首の世界のあり方が印象的な一連だった。〈正面からとは思えども裏切ると言えば背中のあたり寒くて〉。

6月の連作

2020年6月の諸誌紙から、気になる連作をピックアップします。(順不同)

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斉藤斎藤「エッセンシャル・ワーク」30首(「短歌研究」6月号)
詞書というか散文というかがベースにあって、そこに短歌が浮き上がるような一連である。長歌・短歌のあり方を連想した。「3月第3週」からはじまって「4月第1週」まで、おこったこと、わかったこと、ひとの動き、自分の動きが印象的にえがかれている。再現されている、といったほうがいいかもしれない。〈ああ家は顔を手で触り放題 4日で7日ぶん目をこする〉〈このひとに感染されるならしょうがなく思える感情を認知する〉

鯨井可菜子「花火と豆菓子」20首(「短歌研究」6月号)
はじめの一首が「一月二十二日」、そこからおりおり日付のあるうたが並び、「四月十八日」まである。〈トイレットペーパーこんもり送られて義母は香りつき叔母は香りなし〉とはトイレットペパーが買い占めなどによって店頭から消えてことをうけての一首だろう。「こんもり」に感情がのっていて、それゆえ義母と叔母、香りつき香りなしの差異が注意深くうけとられる。〈八重桜の枝は歩道に垂れ込めてときどき人が触ってゆけり〉

田村元「セミハード」20首(「歌壇」6月号)
作者らしい粒のしっかりしたうたが並び、疫禍の日々がどこか新鮮によみがえる。〈欲しいものネットの小窓に打ち込めばなんでも届いた二、三ヶ月前〉〈戸をすこし開けて受け取る小サイズ普通サイズの弁当ふたつ〉〈焼き鳥のテイクアウトを受け取りて店の奥へも会釈を返す〉など、生活のかわりぶりや、そのなかでのこころの動きがつぶさに、しかし印象づよくうたわれている。

恒成美代子「彼方への記憶」33首(「短歌往来」6月号)
「一年間の闘病の末、死んでしまつた夫」を、夫とあった歳月を、たどるような一連である。六首目からはじまるブロックには「二〇二〇年一月十九日」、十首目からのブロックには「二〇二〇年一月九日」、さらに十五首目からには「二〇一九年十二月二十四日」というふうに日付をたどってみることができる。一連を通過しながら、終盤にさしかかるころの一首〈三食が二食になりて一食になること怖し 食べねばわたし〉がことさらこころに残る。

永田紅「オンライン授業」13首(「短歌往来」6月号)
子が「五年間通いし山の保育園」を卒園するところから一連がはじまる。〈「たくさんの毎日をここで」帳面に貼られしシールの数の毎日〉は「さよならぼくたちのほいくえん」の歌詞を引きながら、その「たくさんの毎日」のしるしである「シール」によみがえる歳月がある。後半へかけてはそのまま小学一年生の日々がはじまる。〈新型の「し」コロナの「コ」の音に過敏になりし子と湯に浸かる〉

伊藤一彦「いのち」5首(「現代短歌新聞」6月号)
新型コロナウイルスによる感染症拡大のことで、あとになって気づくことは多々あって、そのひとつが「口蹄疫」のことであった。たとえば「短歌研究」5月号に〈人間を集め処分することはできぬ十三万頭の豚みたいに〉という前田康子のうたがある。伊藤のうたう〈殺処分されし牛・豚二十九万七千八百八頭なりき〉という数の具体性、「き」という助動詞にこもる眼差しが全体にもかようような一連だった。

さいとうなおこ「虹始見」12首(「現代短歌新聞」6月号)
二首目〈あかるくてさびしいまひる山鳩の夫妻を食事にご招待せり〉の結句「ご招待せり」の温度や風通しが一連の展開を予感させる。三首目〈子どもらの消えた校庭チューリップは並んで咲いて歪んで散って〉の下の句、あるいは五首目〈熱々のサーディン四尾に醤油かけテレビ音消してご飯をたべる〉のようにうたが続いていく。いまの状況をうたいながら滑稽や皮肉にかたむきすぎないところでおかしみがうまれている。

漆原涼「恩寵と息吹(二)」10首(「未来」6月号)
比喩やことば(名詞)の組み立てによって重厚な世界をうみだす作者の、そのなかでも統制のよくとれたうつくしい一連であるとおもう。たとえば二首目〈白き陶器をゆまりのながれみづのながれひとりのための泉をとぢる〉のたかまりは「ひとりのための泉」というところで頂点に達するが、それが「とぢる」によって奔放のほうへは向かわず、震えるように堪えて建つ一首となった。

5月の連作

2020年5月の諸誌紙から、気になる連作をピックアップします。(順不同)

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篠弘「冬のいなづま」28首(角川「短歌」5月号)
〈個室へと朝より移りたりしよりここに旅立つことも思ひつ〉〈手術せし痕いたみしがこの昼より添削をする心をうつす〉など。自然な呼吸のなかに措辞のバリエーションがあって読み応えがある。

小池光「ことしの春」28首(角川「短歌」5月号)
一首目から〈暗黒疾走の「はやぶさ」にありて岩波新書『独ソ戦』をばむさぼり読みつ〉と仕掛けにくる。一首一首のたくらみのおもしろさ。

前田康子「桃いろやさしき」10首(角川「短歌」5月号)
〈十五銭は銃後の護りとも言われると解説あればみな感心す〉の「十五銭は銃後の護り」のような情報が並び、一連の印象をつくっている。

花山周子「正常 二〇一九年十月〜十二月」24首(「現代短歌」5月号)
〈ビリーヤードの二百万円のキュー並ぶ 想像のほかのお金の使い道〉〈ふいに寝つける娘の顔はふくらんで幼子となる静かな時間〉、核心にいきなりはいりこむ視線その文体。

小島ゆかり「丘」20首(「歌壇」5月号)
肉感のある比喩が、一連の光景を歪にえがく。〈曇り日はまなぶた重し古びたる眼球に似る春の太陽〉。

屋良健一郎「灯下を帰る」10首(「短歌往来」5月号)
一連にごくしぜんな流れがあって読ませる。〈薄れゆく草のにおいを妻は言うおさなは転ぶことなく駆けて〉。

棚木恒寿「大試験」10首(「短歌往来」5月号)
〈ある人はウイルスに「全力で」「ますます加速して」「まさに今」取り組むと言う〉。歯切れのある一連。

前田康子「伝染(うつ)る」7首(「短歌研究」5月号)
同じ作者の先の連作と似たつくり。〈人間を集め処分することはできぬ十三万頭の豚みたいに〉。

本田一弘「三月一日」7首(「短歌研究」5月号)
シンプルだが、透き通るような口調がある。卒業式の一連、〈マスクする子らもマスクをせぬ子らも名を呼ばるれば竹のごと立つ〉。

藤島秀憲「はずしに」7首(「短歌研究」5月号)
一首目〈あるべきが一枚もなき棚を見てしずかな町を帰る日の暮れ〉、マスクのことだが、この抑制がいい。一連全体にも言えることだ。

平岡直子「投稿」7首(「短歌研究」5月号)
〈松の実が乗っているピザとかはどう 友だちは外国で傘のよう〉〈つるつるの折り込みチラシが反射してわたしは太平洋より小さい〉〈今はもう使われてない鐘楼のように手ばかり洗っているよ〉。一首一首の粒のたしかさをおもった。

日高堯子「春猫」7首(「短歌研究」5月号)
〈水仙の葉叢をとほりぬけながらふと花を嗅ぐ春のとら猫〉。春の猫がぽつぽつあって、一連をおしすすめる。

花山周子「うちにとっては」7首(「短歌研究」5月号)
この題そのものに作家性をみる。〈突然の休校となり学校の全ての荷物子は背負って来つ〉〈沖縄に行く計画が持ち上がりわれがぽしゃらせた元気がなくて〉。

花山多佳子「天狗笑ひ」7首(「短歌研究」5月号)
〈何時ですか わが自転車を止めて問ふ少年四人 春のまひるま〉。学校が突然休みになってこんな時間がうまれた。

野田光介「どんがら」7首(「短歌研究」5月号)
〈卓上のとろろ昆布を風呂あがりの二本の指につまみて食えり〉、「二本の指に」のつまみ食い感。一首おおらかにして仔細なところがある。

武田穂佳「ツインソウル」7首(「短歌研究」5月号)
〈ハートの電飾見つけただけで恥ずかしい君とふたりで歩いていたら〉〈会わなくていいもう喋らなくていいただ山があるようにいつでも〉。ワンテーマでひといき、という感じ。密度がある。

染野太朗「味噌を作る」7首(「短歌研究」5月号)
はじめてということ、今の感情と光景があわさるようできらめきがあった。〈ひと晩をみづに浸ければまんまるの大豆が楕円 三月の朝〉〈百均で買つた小型のマッシャーの存外に良し汗してつぶす〉。

島田修三「忘れたいのに」7首(「短歌研究」5月号)
〈エゾマツの幹ずぶときが寒のきはみ縦ざまに裂け叫喚するといふ〉にはじまるごつめの一連。

さいとうなおこ「水菜の束」7首(「短歌研究」5月号)
挽歌一連。〈泣き顔を見たくはないと言うだろうゆうべ水菜の束のつめたさ〉〈夫の椅子傾けぼんやり見ておりぬ逆光の部屋動くものなし〉。

佐佐木幸綱「一茶の孤独」7首(「短歌研究」5月号)
一首目〈蚊や蚤や蠅が飛ぶ句の俳人は五月五日の信濃の生まれ〉の「俳人」は三首目でやっと「一茶」と名前が出てくる。連作ならではとおもう。

小島なお「早送り」7首(「短歌研究」5月号)
〈自動ドアに映る自分が真ふたつに割れて居合刀提げて入る〉〈なぞりつつコップの縁に円を描く円は終わらず戦争思う〉。結末にむかいながら唐突にイメージがかたまる。

小池光「ダウラギリ」7首(「短歌研究」5月号)
下の句でふっと浮上する、あるいはひねりつぶす、そういう一首のあり方に注目する。〈「掃部守」はかもんのかみと読むことを父に習ひぬ春くれば花〉〈「色」の字は男女交合のさまを象形す淡雪ふりて消えゆきしかな〉。

工藤吉生「乳首」7首(「短歌研究」5月号)
一首の核がむきだしになって立っている。〈タイトルを「乳首」とつけて書き込んだ目立ちたがりの過去はずかしい〉〈音楽がなぜ好きなのか考えて暗い呪術に思いは及ぶ〉。パズルが完成したような爽快感がにじむ。

大島史洋「すすり泣き」7首(「短歌研究」5月号)
どこか親近感のようなものをおぼえつつ読んだ。〈サルスベリ墓のかたえに咲きおれば寄りゆきて座る墓と並びて〉。ひとつことを言って、そこから遠くへいかずもうすこし押すような味わい。

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ほかに5月に読んだ連作から。

小山加悦子「弟よ」15首(「玉ゆら」vol.68、2020.4)
大きな時間軸のなかで、こまかな場面が点々とうたわれる。〈釣り好きの弟の捌く鯵のさしみ夏バテの父の箸すすみたり〉。

北村早紀「白の跳躍」20首(「遠泳」、2019.1)
〈人並みにやんちゃもしたさ、それほどでもないけど言えば馴染めるかなあ〉など。一連をとおしてひとつ心情がうたわれる。

橋爪志保「息の根を呼びとめて」30首(「のど笛」、2020.1)
これも一本筋のとおった一連。〈後ろ前に着たらくるしい首元のやわらかければいいのにな死が〉。

平出奔「その時代のことはあまり知らない」30首(「のど笛」、2020.1)
一首一首がスピーディーで読まされる。〈王将で学歴のことを話してて酢豚は2じゃ割れないと思った〉〈知っているネタで若干追い越して笑っていたらオチが違った〉。

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年長崎県生まれ。「やまなみ」所属。2018年、『温泉』(現代短歌社)。2021年、『meal』(現代短歌社)。
▶︎『温泉』『meal』のご購入はこちらから。現代短歌社オンラインショップです。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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