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特集「渡辺松男の軌跡」(「かりん」2010年11月号)

23 扉、目次

評論
24-25 岩田正 樹のうたと渡辺松男
26-29 坂井修一 汎生命と人間
30-33 梅内美華子 見えないものの力
34-37 大井学 無限と反復

松男さんに聞く「初期作品の頃」
38-43 渡辺松男 (聞き手)大井学

渡辺松男百首選
44-49 馬場あき子 選

渡辺松男年譜
44-48 尾崎朗子 編

エッセイ
49 渡辺松男 私のうたのはじまり(「歌壇」1997年6月号より転載)
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人物特集「渡辺松男」(角川「短歌」2014年10月号)

129 扉

総論
130-132 川野里子 世界そのものとなる「私」——茂吉を超えて
133-135 吉川宏志 言葉を初々しく使う

素顔の渡辺松男
136-137 小島ゆかり 水楢のひと
138-139 梅内美華子 大むかしからああうろこ雲

渡辺松男の一首
140 魚村晋太郎 渾然一体
140 染野太朗 ガスの元栓
141 高村典子 時間
141 大森静佳 世界への澄んだ絶望

渡辺松男の嗜好
142 尾崎朗子 編

渡辺松男語録
143-147 大井学 編

新作30首
148-153 渡辺松男 蛍、寝釈迦、ここを木と呼ぶ

特集「渡辺松男」目次(「短歌往来」2013年10月号)

32-33 扉、写真

評論
34-41 三枝浩樹 歌のアウフヘーベン——渡辺松男を試論する
42-45 山田富士郎 エスノセントリズムを超えて——「へりくだる」人
46-49 川野里子 「ありがとう」と言う者・・・・渡辺松男の「私」

渡辺松男のキーワード
50 大野道夫 木
51 藤室苑子 食と哲学
52 光森裕樹 限りある生への意識をめぐって
53 大松達知 帰るべき場所としての空

渡辺松男の五首
54 佐藤通雅
55 佐伯裕子
56 三井修
57 小島ゆかり
58 柳宣宏
59 沖ななも

渡辺松男のうた50首抄
60-63 江田浩司 選

略年譜
64-65 尾﨑朗子 編

山中智恵子と渡辺松男

永田和宏『私の前衛短歌』(砂子屋書房、2017年)は標的は絞られているが射程は広い。そういう印象に読み進めている。なかに「遍在する〈私〉」という文章があって、山中智恵子のことが書かれている。

みなかみの石に出で入(い)るわが影の胴のかたちか 思い熄(や)みなむ
絲とんぼわが骨くぐりひとときのいのちかげりぬ夏の心に
   『紡錘』山中智恵子

この2首を目にしたとき、渡辺松男だ、と思った。他にも数首引きながら永田はこう言う(p.118)。

 これらの作品に共通しているものを、たとえば肉体の無限定感などということばで仮りに呼んでおく。山中智恵子にとって、肉体は、はっきりした輪郭をもって自己に所属し、自己を他から区別するためのものとは、意識されてはいないのではないかと、思うのである。


石に出入りする〈私〉、あるいは〈私〉を出入りする絲とんぼ。たしかに〈私〉というものの輪郭はおぼろである。このような歌の特徴は渡辺松男にもみることができる。

夕焼けの胸のなかからとりいだしし木造校舎によき鐘が鳴る
さうだわたしは赤いとんぼであつたのだ窓をぬけ出たむすうのわたし
木に凭れこころおちつかせてをればとほい空ちかい空ととけあふ
   『雨(ふ)る』渡辺松男

いま手元ですぐに参照できる最新歌集から引いた。こうして見比べてみるとはっきりと文体の違いが感じられる。しかし〈私〉のあり方、という点においては共通のものがあるだろう。

これらの歌についてはかつて、「胸に浮かべて思うにとどまらず、境界をやぶって現実世界で鐘が鳴る」「わたしは身はこちら側に置きながら、無数のわたしが窓を通過していってとんぼとしてあることを受け取っている」「とけあう境界を見ようとする」と書いた(「渡辺松男の壺」『tanqua franca』)。永田の言う「肉体の無限定感」ということばにはおおいに共鳴する。

     *

渡辺松男の歌集『〈空き部屋〉』には〈わたし〉をテーマに、〈わたし〉をひたすらに詠んだ一連がある。永田が山中のなかに指摘する〈私〉と相通ずるものがあるだろう。

 これらの作品にあらわれる私は、身長と体重の限る、明確だが狭い領域に閉ざされているのではなく、作者自身にさえしかとは特定できないような茫漠とした広がりをもち、むしろ外界にエーテルのように遍在するある種の存在とでも呼べそうなものである。


『紡錘』につづく歌集『みずかありなむ』の歌にも共通の〈私〉を指摘しながら永田はこう述べる(p.119)。さらに文章は、前衛短歌の提起した問題であるところの「私性」に対する山中的解答が〈遍在する私〉ではなかったか、とつづく。『紡錘』も『みずかありなむ』も読んでみなくてはな、と思う。そして渡辺松男については、〈私〉のあり方としては山中的方法と重なりながら、しかしその文体はまた別のところから来ているように映る。ともかくこの二人の共通部分を見たようで、おどろきが大きい文章であった。「遍在する〈私〉」の初出は「短歌」1991年10月号とのこと。

阿波野巧也と山階基

阿波野巧也と山階基についてしばらく注目していて、いくつか書いたものがあるのでまとめておきたい。
と思っていろいろ見返してみると、山階さんについて書いた文章がほとんどないことに気づいた。これから書きます。

〔阿波野巧也〕
〈の〉について――阿波野巧也を読んで(2015.9.23)
「ぼく」が「ぼく」であることをめぐって――阿波野巧也と「ぼく」(2014.8.14)
「そうだよな」「微熱」「はいつも遅れて」(2014.6.1)
さかなのように(2013.6.26)

〔山階基〕
・1首評と返歌1首(ぺんぎんぱんつの紙「山階基トリビュート」)
・山階基の〈作る〉短歌(「やまなみ」2016.10月号・11月号)
山階基と〈もの〉のうた(2015.4.4)

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プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生。2018年、『温泉』(現代短歌社)を刊行。「やまなみ」所属。
▶︎『温泉』ご購入はこちらから。現代短歌社のオンラインショップです。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はs.ohsamay@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

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