古賀大介『三日月が小舟』〈前〉(2018年)

夕暮れの川辺を思わせる写真の表紙をめくっていくと、次の2首から歌集は始まる。

五月雨の夜の窓辺に立ちている私は何のつづきだろうか
紫陽花が庭にやさしく咲く頃に痛みのように思い出す雨

夕暮れのつづきの夜、のように作品世界に入っていく。呆然と、と言うよりは体をきちんと立てて、なにか遠くを見ようとする眼差しがある。思索がめぐる。「あの頃」と「今」の接続を思い、あるいは「あちら」と「こちら」の交流を思う。そんな歌集全体の気配を予感させるような2首である。

薄雲のそら楽しいか悲しいか苦しくないか肉まんを食みつつ

この「そら」は「空」でもあろうが、一方で掛け声のようにも読んだ。「ほらごらん」「そらヒグラシだよ」という時の「ほら」「そら」のような感じだ。薄雲の、で一呼吸おいて、そこから〈わたし〉と薄雲と往還し混じりあうように「楽しいか」「悲しいか」「苦しくないか」と交わされる。それは〈わたし〉からの声であるわけだが、声となって発せられた途端に〈わたし〉への声にもなる。〈わたし〉は肉まんを食んでいる。肉まんの皮のうすい白と薄雲とがすれすれのところで交わっている。

ゆく道の街灯も冬、冬だろうカレーの匂いどこからか浮く

街灯も冬、と言い切ってのち、冬だろう、と言い直す。リフレインというのはひとつ歌の流れを決めるレトリックではあるけれど、もうひとつ、認識を問いなおす、景色を更新する、もう一段階踏み込んで描きなおす、そういう方法でもあろう。冬だろう、と言い直した思考が「浮く」という動詞をおびきよせているようでもある。カレーの匂いがただよっている。そうか匂いは浮くのか、と思った。

     *

牛乳の白に予感を覚えつつ確かにそれは牛乳である
その風に乗ってしまえと誰か言う春はわらってもっとわらって

慎重である。牛乳であることを予感し、同時に、それを牛乳と認める。いや、牛乳の白に「牛乳ではない何かべつの、あの白」を予感しているのかもしれない。しかしそれは牛乳である。いずれにしても、それが確かに牛乳であることからくるささやかな安堵がある。そうだと思えること、確かにそうであるとうたがわずに済んでいられることへの安心だ。〈わたし〉はたくさんの声をきく。声がきこえて、それに応えて、世界を歩き、世界にとけこみ、その分、確かな「今」や「ここ」はほんのわずかである。「確かにそれは牛乳である」ということへのうれしさがにじんで映る。「もっとわらって」と掴みなおす。

風船の頃の記憶の切れはしが飛んでいくのが見える がんばれ

あの頃の記憶、と今を取り結ぶような歌がいくつもある。そのなかの1首だ。「風船の頃の記憶」というのはどうだろう。〈わたし〉が風船であった頃の記憶か、〈わたし〉が風船で遊んでいた頃の記憶か。ここでは前者をとる。むろん、風船であった頃のつづきに〈わたし〉がいるわけではない。風船の頃の〈わたし〉はそれとして、今はまた別の〈わたし〉を生きている。であるから、その切れはしをここから見ることができる。がんばれ、とつぶやかれたそれは、風船の頃の〈わたし〉へのエールなのだが、それはまぎれもなく今の〈わたし〉へのエールとなってふりそそぐ。

夕ぐれの向こうに君をんっ、んっ、とみている夏のアセロラソーダ

みているのは誰か、何か、としつこいようだが考えてみる。1つには〈わたし〉が君をみていて、そんな夏の、アセロラソーダという読みがある。もう1つ、夏のアセロラソーダが君をみている、という読みもある。これはどちらとも断定しがたい。ともかくいま眼前に君がいるのではない。アセロラソーダは〈わたし〉の目の前にある。であるから、その距離を思えば、「みている」の主語がどちらであっても視線の長さはほぼ等しいと思える。「んっ、んっ、」というのは〈わたし〉の心であろうか、眼であろうか、あるいはアセロラソーダの炭酸の泡であろうか。〈わたし〉はアセロラソーダだろうか。

     *

めのなかにまどのひかりがゆれていたちいさなうたがぽつぽつできた
そして夏 入道雲であることを忘れて昼の床にふくらむ
駅前の行くほど行けぬ路の上で「ジャンプ」を拾う 月がみている

歌集は全部で4つの章からなる。その前から2つ、ⅠとⅡの歌を読んだところでこの稿を閉じることとする。

1首目、なにか新たな展開を予感させるような歌だ。なにかが終わっても、そこから安寧がつづくわけではない。その隙に、また新たな何かが入り込んでくる。その、次の話までのほんのわずかの時間。ちいさな声が印象的だ。2首目、気の抜けたような夏の一場面である。昼の床にふくらむ、というのにふしぎな生命感があって、「そして夏」という初句の威勢とのズレもおもしろい。3首目、だんだんと体を起こしている。後ろめたさではない。「月がみている」というのはむしろ安堵だろう。世界と再びまじりあう心を取り戻しつつある、そんな姿だと思った。



*歌の引用はすべて歌集『三日月が小舟』(六花書林、2018年)に依ります。
スポンサーサイト

花水木

「家」を「実家」と呼ぶようになったのはいつだったか。気づいたらそう呼ぶようになっていた、そう呼ぶような場面が増えていた、という気がする。多くは進学や就職を機にそれまで暮らしていた「家」を出て、またちがう「家」で生活するようになったときに、かつての「家」を相対的に「実家」と呼ぶ、という側面はあるだろう。

ただ、それは本当にひとつの側面でしかなく、かつて暮らした「家」を「実家」と呼ぶかどうか、呼び得るかどうか、呼びたいかどうかは、さまざまであろうと思う。また、「家」そのものは変わらず(つまり、ずっと同じところで暮らしていよう)とも、あるときから「実家」と呼ぶようになることも当然ある。

「生家」ということばがあるが、こちらは生まれたところ、あるいは生まれたばかりの頃を過ごしていた「家」を表す。「実家」ということばがもつ相対的なものはここにはなく、ただ事実としての「生家」があるのみだ。むろん「生家」をもつかどうかはこれも人それぞれである。ただ、「実家」ということばは、それに比べてもいくらも複雑である。

いつの間に「実(じつ)」の字をつけ呼ぶ家の道に変わらず花水木立つ
   佐佐木定綱「文机」

角川「短歌」1月号から引いた。「実」の字をつけて呼ぶようになったという変化への意識と、そこから生まれる「変わらない花水木」への視線が「の」を媒介にしてあらわされている。「家の道」は「家路(家への道)」ととるか、「家のなかにある道」ととるか。ここでは後者をとって、庭の広い家を想像する。いろんなことは変わってしまって、わたしも「家」も「花水木」もあの頃のままではないし、今も少しずつ変化しているわけだけれど、それでも「家」と呼んでいたころの〈感じ〉や、今、「実」の字をつけて呼ぶようになった〈感じ〉や、花水木がずっとあって、今もあるという〈こと〉、というつかみどころのないものがむしろ、はっきりと変わらず手のなかにあるような雰囲気がつたってくる。

氷三つグラスに投げて金色(こんじき)のウイスキー傾けている父
   同

同じ一連からもう一首。グラスに「投げて」という手つきから、「父」の姿を想像する。「金色(こんじき)」も昔のままだろう。酒を飲む姿勢や、何を飲むか、どう飲むかにもおのずと歳月があらわれる。変わるものも変わらないものもあるだろう。「実」の字をつけて呼ぶ家への視線の先に、花水木があり、父がいる。



*歌の引用は『短歌』2018年1月号(角川文化振興財団、2018年)に依ります。

いま釣り鐘のように

大森さんの比喩の独特な感じになぐられることがある。角川「短歌」1月号のなかにこんな1首があった。

感情がいま釣り鐘のように重い 錆びながら、もっとかがやきながら
   大森静佳「虹」

この「釣り鐘のように」の生な感じ、グロテスクとまではいかないけれど、皮膚のいちばん薄いところで接してくる感じに冷や冷やする。それを一字空けののちの下の句では、さらに鮮明にこちらへ渡してくる。

頭から読んでみると、「いま」がこの比喩をささえていることがわかる。

感情というのは釣り鐘のように重い、と一般論のような言い方になると、その比喩についていける側とついていけない側の差がよりはっきりしてくる。ここに「いま」がはいることで、感情というのが「いつもかどうかはわからないけれど、ともかくいまは」「いまの〈わたし〉にとっては」釣り鐘のように重い、と状況がごく限定される。そうすると、「そういうこともあるのだろうなあ」くらいの気持ちで受け止めることができる。

   *

三句切れのうた。上の句で大きく述べて、下の句でイメージをこまかにしていくスタイルである。これは三句切れだから、というわけではなくて「初句切れ+α」「二句切れ+α」「四句切れ+α」という形もある。まず大状況を述べておいて(ここで読者をつかむ)、それから具体的な状況を書き込んで景を鮮明にしたり、あるいはイメージを転覆させて、さらなる状況を提示したりする方法だ。

いわゆるニ物衝突をAB型と呼ぶならば、これはAa型という感じだろうか。
(「の」を蝶番やバネのように使って「情」と「景」を結ぶやり方があるが、こちらはAA’型と呼べるだろう。)

このAa型には、1発目であえて反発心を生んでおいて、それを利用して2発目で一気に転覆するような作り方がある。掲出歌の場合はそれとはちがって、1発目では反発心は抑えながら、2発目でおしてくるタイプだ。ただ、「釣り鐘のように重い」といったときに「釣り鐘」の「重さ」をたよりに感情の「重さ」をおしはかるのだが、下の句では「重さ」ではなくて釣り鐘の見た目、質感のようなところが述べられる。そういう意味では単なる塗り重ねではなく、実はスライドがあるのであって、転覆と言えなくもない。このあたりはさらに細分化できそうなので、Aa型のなかのバリエーションはもっと整理が必要だ。

さらに、「錆びながら」で時間の経過を思わせながら、その流れに逆行するかのように「もっとかがやきながら」と歌われる。aの中にさらにBbが潜んでいる構造だ。逆行、と書いてしまったが、「錆びる、すなわち、もっとかがやく」という筋もあるだろう。順接でなくても、「錆びながら、(しかし、逆に、そのことによって)もっとかがやきながら」という受け取り方も出てくる。

であるから当然、はいこのうたはAa型ですね、と片付けるわけにはいかない。

   *

さらに今回は空白や読点によって接続されている点、あるいは「いま」「もっと」のはたらきも関わってくる。結句の「ながら」の次の「ながら」を思ってしまう。



*歌の引用は『短歌』2018年1月号(角川文化振興財団、2018年)に依ります。

第4回鳥ノ栖歌会

お待たせしました、第4回鳥ノ栖歌会のお知らせです。

日時 2018年2月27日(火)19時〜21時
場所 サンメッセ鳥栖(JR鳥栖駅そばの歩道橋を渡ってすぐです。)
定員 10名
*前半は「tanqua franca」を読む会①、後半は自由詠1首による歌会をおこないます。
読む会では「盛田志保子×佐々木朔」を読みます。
*参加を希望される方は、前日までにtorinosu.utakai@gmail.com(@は半角)へ自由詠1首を添えてお申込みください。

     *

〈「tanqua franca」を読む会の予定〉
1回につき、1つのタッグを読んでいきたいと思います。
順番は以下のように予定しています。

① 盛田志保子×佐々木朔
② 紀野恵×佐藤真美
③ 穂村弘×寺井龍哉
④ 光森裕樹×濱田友郎
⑤ 水原紫苑×睦月都
⑥ 渡辺松男×山下翔
⑦ 阿木津英×山城周

文章の話でも、作品の話でもかまいません。
読んでみての感想や考えたことを少しずつ持ち寄って話せる場になればと思います。

2月のうちに

歌集のためにひたすら歌数を絞っていく作業が続いている。減ったら減ったで別な形が見えてくるので、玉ねぎの皮むきとはちがった途方もなさがある。歌数は決めたので、それにむけてもうしばらく。2月になってしまった。さすがにけりをつけたい。

   *

キャラバンの冊子のほうも、いい加減仕上げなくてはならない。素材はあるのだから簡単にすすむと思っていたのだが、そんなにやさしいものではなかった。歌集の原稿を作りながら、旅の歌が多いなあと思う。日常のうたさえもそこに据わっている感じはうすい。批評会や読む会をキャラバンのスタイルでやるのはどうだろうか、と想像してみたりもする。ともかく完成させなくては。

   *

『tanqua franca』をじっくり読む時間が欲しい。これも2月のうちに。

   *

このところ、雪の日が続いている。吹雪の中に身を置いてみると、なにか清らかになるような気分になるが、たぶんというかきっと気のせいだろう。でも気持ちいい。なにかが解決するわけではないけれど、春が待ち通しくもある。

プロフィール

山下翔(やました・しょう)

Author:山下翔(やました・しょう)
▶︎1990年生まれ。「やまなみ」所属、野田光介に師事。16歳より作歌を開始。2016年、歌壇賞候補、現代短歌社賞次席、「温泉」50首が話題になる。2017年、現代短歌社賞次席。
▶︎現在、鳥ノ栖歌会に参加。ツイキャスユニット「いいぞもつとやれ」、企画同人誌「tanqua franca」で活動中。
▶︎初期作品を「空を見てゐる」18首にまとめています。その後の2014年〜2017年の作品は『湯』『温泉』にまとめています。
▶︎お問い合わせ、ご依頼はkyushu.sc.m.yamasho@gmail.com(@は半角に変えてください)までご連絡ください。

最新トラックバック

検索フォーム

ブロとも申請フォーム

QRコード

QR