凡フライ日記

山下翔と短歌

作品リスト(短歌)

【2017年】
・「梨と水」7首+エッセイ(『現代短歌』10月号、現代短歌社)
・「わたしは歩く」7首(『現代短歌』8月号、現代短歌社)
・「散髪の時間」12首(『現代短歌新聞』7月号、現代短歌社)
・「大きな家」8首(福岡歌会(仮)アンソロジーV、2016.6)
・絵画のための題詠5首—特集「短歌と絵画が出会う時」(『ARTing』第12号、花書院、2017.6)
・「さよならだけが人生だ」3首—特集「競詠 平成生まれの歌人たち」(『梧葉』VoL.53、梧葉出版、2017.4)
・「六地蔵」7首—「いま読みたい旧かな歌人」(『はつか』、2017.1)
・「かたはらにきみを」7首—特集「沖縄を詠む」(『現代短歌』2月号、現代短歌社)
・中本吉昭選「全国秀歌集(福岡県)」に1首掲載(『現代短歌』1月号、現代短歌社)


【2016年】
・『湯』(300首)20首抄—第4回現代短歌社賞次席(『現代短歌』12月号、現代短歌社)
・「温泉」50首(『九大短歌』第四号、2016.10)
・第59回短歌研究新人賞佳作5首掲載(『短歌研究』9月号、短歌研究社)
・「鰊」10首(『かぜまち』、ここのつ歌会、2016.6)
・「湯」8首(福岡歌会(仮)アンソロジーIV、2016.6)
・「親の落としもの」7首—特集「若き才能を感じる歌人たち」(『歌壇』5月号、本阿弥書店)
・「墓とラムネ」30首—第27回歌壇賞候補作品(『歌壇』2月号、本阿弥書店)
・恒成美代子選「全国秀歌集(福岡県)」に1首掲載(『現代短歌』1月号、現代短歌社)


【2015年】
・「空を見てゐる」18首(合同歌集『連嶺』、やまなみ短歌会、2015.12)
・染野太朗選「今年の十首」に1首掲載(『歌壇』12月号、本阿弥書店)
・「交流」30首 (『九大短歌』第三号、2015.10)
・「のぼろ」vol.10「山を詠む」出詠3首 (西日本新聞社、2015.9)
・「銀鱈の皮」30首 (『九大短歌』第二号、2015.6)
・「まだ風の冷たい五月二日に」8首 (福岡歌会(仮)アンソロジーIII、2015.6)
・「みるくぱん」20首—第39回芥火賞受賞作品 (『やまなみ』1月号)


【2014年】
・「マクドナルドでしりとりを」5首 (『九大短歌』創刊号、2014.6)
・「But, I don't have a car now.」10首 (『九大短歌』創刊号、2014.6)
・「ゆつくり歩いてもみた」8首 (福岡歌会(仮)アンソロジーII、2014.6)
・「歳月」7首 (『歌壇』6月号、本阿弥書店)
・「傘は差さずに街を歩いた」7首 (『NHK短歌』3月号、NHK出版)


【2013年】
・「CAMPARIの背中」8首 (福岡歌会(仮)アンソロジー、2013.6)
・「水飲み場」10首 (『現代短歌新聞』4月号、現代短歌社)

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この100冊 1

短歌のブログだけど、短歌以外の本もくわえて、
「この100冊」というのを書いていこうと思います。

いま、手元に「この100冊」のリストがあるわけではありません。

これから書きながら、最終的に100になればいいかなあ、と。
ほとんどメモみたいなものですが。

では早速1冊目。

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1 代数的構造(遠山啓、ちくま学芸文庫)

どんな人にいいかというと、
 1、「群」について簡単に、しかし具体的にも学びたい
 2、「自然数」や「整数」の構成について学びたい
のふたつ。

環と体、ガロア理論まで一冊でいける。射程はひろい。

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発表します! 「100首詠キャラバン2017」

ツイッターで告知しておりました「100首詠キャラバン2017」ですが、
ただいま26名の方から28冊のお申し込みをいただいています。(8/11現在)
内訳は、アが1冊、イが6冊、ウが11冊、エが10冊です。

まことに、ありがとうございます。

この取り組みは今年はじめてのものですので、まずは概要を説明します。

「100首詠キャラバン2017」とは……

9月に8日間、山下翔が、歌会に参加しながら全国をまわります。

○ ★札幌→函館→★仙台→★東京→★神奈川→★名古屋→★大阪→神戸という行程です。
・★では歌会に参加します。
・なお、各地での歌会につきましては各幹事の方におまかせしており、公表できるタイミングになりましたら、それぞれ公表しようと思います。


同時に、1日100首×8日間=800首を製作します。

○ それらを整理してまとめた小冊子を作ります。
・ホッチキス留めのごくごく簡単なものです。
・この小冊子は旅の記録であり、またごく個人的なお礼の品ですから、文フリや福岡ポエイチなどの各種即売会、通販などで今後販売することはいっさいありません。

○ 小冊子は全部で4種類あります。

  ア 短歌150首       (1000円)
  イ 短歌250首+エッセイ (2000円)
  ウ 短歌400首+エッセイ (3000円)
  エ 短歌800首+エッセイ (6000円)
  
・なお、内容に関して、ア⊂イ⊂ウ⊂エという包含関係がなりたちます。
(つまり、アに収録のものはイ、ウ、エにも収録されます。 同様に、イに収録のものはウ、エにも収録されます。ウに収録のものはエにも収録されます。)
・エについてお断り:作品は十分に仕上げますが、800首詠の記録、という要素を優先させることをお断りしておきます。


いずれも事前予約・前払い制にて承ります。(これを旅費の足しにしたいと思います!)

○ この取り組みにご協力いただける方は、ツイッターのDMまたはメールにてお申し込みください。

 ツイッター:@Yamashio_
 メール:kyushu.sc.m.yamasho@gmail.com(@は半角にしてください)

お申し込みの際、ア・イ・ウ・エのどれを希望するかを明記してください。

○ お申し込みいただいた方に、今後の流れなど個別にお伝えします。

お申込みの〆切は8月13日(日)までとします。また、お支払いの〆切は8月18日(金)までとします。

以上です。ご興味ある方、ご協力いただける方、お申し込みおまちしております。

追伸 これはまだどのくらい実現できるかわかりませんが、「エッセイ」の枠のなかで、協力してくださった方の一首評がやれたらなあ、と思っています。まだ断言はできませんが。

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阿波野巧也「緑のベンチと三匹の犬」を読む1

 「詩客」というサイトに、阿波野巧也の作品「緑のベンチと三匹の犬」が載っている。阿波野作品の現在がよくあらわれている10首連作だなあ、と思ってうなりながら読んだ。

・父親とラッパの写真 父親は若くなりラッパを吹いている
   阿波野巧也「緑のベンチと三匹の犬」

 写真、というのは(って別に写真に限った話ではないし、なんなら短歌だってそうだけど)過去をうつすものである。けれど、その写真の中(に限った話ではないし、たとえば短歌とか歌集だってそうだけど、その中)で、そのものや人や、景色は現在形である。

 掲出歌ではまず「父親とラッパの写真」が示される。この時点で、父親とラッパをどのように結びつけるかは読者にまかされている。
 ——父親が楽器屋で働いていて、ラッパをみがいている。
 ——父親が趣味でラッパをやっていて、吹いている。
 なんでもいい。そこは一旦フラットに、「と」という助詞で並列に配される。

 次に一字空いて、もうひとつのかたまりへ。ここですこし、状況がわかってくる。
 父親は「若くなり」というのは奇妙であるけれど、いまの父親の像がわたしのなかに、あるいは実際にあって、そこから写真のなかの父親へ目線をうつすとき、たしかに父親は若くなる。父親は若いままで写真の中にいる、というふうな把握もできるだろうけど、そうではなくて、あくまで、わたしが時間をさかのぼって写真のほうへ向かっていく、この視線が一首の核である。そしてそこで、父親は「ラッパを吹いている」。

 ——父親とラッパの写真 父親が若くなりラッパを吹いている
 ——父親とラッパの写真 父親はまだ若くってラッパを吹いている
 ——父親とラッパの写真 父親がまだ若くってラッパを吹いている

 と、書き換えてみる。「父親は若くなり」のニュアンスがだいぶわかってくる。このあたり、もうちょっと詰めないと評にはならないけれど、ともかくおもしろかった。
 これは文体、というよりは情報の削ぎ方に魅力があるんだろうなあ、と思う。状況の示し方や、気分の出し方に独特の色味がある。このあたりをふくめて、2首目以降も検討したい。

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伊舎堂仁『トントングラム』を読む1

ラジオ体操の帰りにけんかしてけんかし終えてまだ8時半
   伊舎堂仁『トントングラム』(2014)

 夏休みなんかに朝から集まってやるラジオ体操、をまずはイメージした。6時半、だったかな、実際にラジオで流れるラジオ体操の音楽と解説をききながらするラジオ体操である。毎日通ったらなにかもらえる、みたいなカードをぶらさげて、一日ひとつスタンプをおしてもらう。というのをやっても、7時には解散、という感じだろう。「まだ」8時半、というのは、けんかするだけけんかして、それでも「まだ」8時半、つまり、こどもの朝は早い、なんでこんなに早いんだろう、というかこどもの一日は長い、その変な感じやある種の懐かしさがこの歌の肝だ、とまで思って読んだのに、いま、少し考えてみるとそうじゃないな、ということがわかる。
 まず、7時から8時半はけっこう長い。ちょっとけんかした、くらいのことにしては長すぎる。ラジオ体操の場所から家までの距離、歩いてか自転車か、帰るのにかかる時間をさし引いても、長い。それで歌をもう一度読んでみると、「けんかして」で上の句が終わるのに続けて「けんかし終えて」と、けんかする、が繰り返されている。上の句と下の句の間をはさんでのリフレインに、けんかの長さを感じることができないだろうか。かなりしっかり、けんかしたのだ。ちょっと口げんかした、とか、ちょっともめた、とかではない。一応はけんかし終えているけれど、なんだか終わってる感じがしない。いや、終わっているんだけれど、何かが残っている。こどものけんかみたいに忘れておわり、仲直りしておわり、なんならもう遊んでるさっきまであんなにけんかしていたのに、という呆気なさが、この歌のけんかにはない。
 つぎに、ふたたび「まだ」という副詞に注目したい。「まだ」8時半、というのを、その渦中にいるこどもが感じるかなあ、という不安が読んでいて残った。時間が全然経っていない、という意味の「まだ」で、たしかに時間が経ってないなあ、とかもうこんな時間なのか、とか、こどもであっても感じることではある。ただ、さっきのけんかの感じと合わせて考えると、どうもここにいるのはおとなのような気がする。ラジオ体操、けんか、まだ8時半、というこどものイメージを引き起こすようなことばで歌を作っていて、たしかにそのイメージがまず浮かぶのだが、しかるのち、そのこどもがにゅーっとおとなにすりかわっていく、そういう奇妙な作りになっているんじゃないか。
 というわけで、おとな、を想定してもう一度歌を読んでみる。おとな、でもまあふだんからラジオ体操をする人はいるし、そういう集まりもあるわけで、必ずしも夏休み、とは言えない。いつでもいい。つぎに、ラジオ体操から帰る、と言っているので、家からラジオ体操をする広場に行って、みんなでラジオ体操をして、それからまた家に帰る、ということだろう。その帰り道、というか帰りはじめにけんかがはじまって、だから結局まだ広場を出ていないかもしれない。帰り、というのはラジオ体操の後から家までの「時間」を表しているわけだ。それでひとしきりけんかして、けんかし終えて、はあ疲れた、っていうかなんでこんな朝っぱらからけんかなんだよ、なんか後味もよくないし。で、時計を見ると「まだ」8時半、という歌である。
 「まだ」というのはこの一首において、たんに、時間が経ってないことに対する「まだ」ではない。相当の気持ちがのった「まだ」なのだ。そしてこの「まだ」という副詞の、ひとつの感じを具体例といういわば比喩によって提示しているのがこの一首の肝心ではないだろうか、と、そういうふうに考えている。

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